突然だが、私は漫画を描いている。
私が漫画を描き始めたのは小学校に入るころだった。
親しい動物をキャラクターとして、コマや演出など関係なしに、A4の裏紙に落ちもないストーリーを作っていった。
漫画を描き始めたころ、同じく没頭していたのが、架空の地図を作ることだった。
やはりA4の裏紙に、架空の鉄道会社をつくり、路線図と車両を描いた。
当時の私は決して人間を描こうとはしなかった。人間嫌いとまでは言わないけれど、とても内向的で、友人との遊びよりもひとり地図と漫画遊びに耽った。
ほんの一部の親族や友人を除いて、他人が怖かった。早生まれで身体が小さいこともあったかもしれない。自分を前に出すことができず、出す気も起らなかった。
中学校に入り、その学校は運動部への加入が義務であったので、私は陸上部に入った。
そこは他の部活を選ばなかった生徒が選ぶ部で、それほどモチベーションの高い場所ではなかったけれど、それでも私も週に何度かは全力で走ったり砲丸を投げたりした。
他人との干渉が不得手で、細かな意図を読むことができず、チームプレイは大いに苦手だった私にとって、ひとりで身体を動かすことは気持ちよかった。動いている間はその行動にのみ集中できた。
どこまでも内向的だった私の世界は、運動という言語によってすこしだけ外に開かれた。下校途中にコンビニの駐車場で買い食いする悪友もできた。私の当時のやんちゃごとはその程度で、酒煙草に興じるクラスメイトを横目に見ながら、優等生を演じていた。
交流があれば衝突もあり、というより私が一方的に押されていたのだが、からかいやいじめに近いことも大いにあった。身体的な特徴をからかわれたときは、それは嫌で仕方なかった。良くも悪くもむき出しの環境だった。
勉強と運動と痛みとで、私の中学校生活は形容できる。
このころは絵を描かなかった。自分の世界を構築するより、自分でない世界のほうに関心が向いていた時期だったと思う。
高校生となり、それまでとは違う大人数での学校生活となり、私は大いに苦しかった。
スクールカーストというものが存在するとしたら、私はかなり低いところにいただろう。運動部で明るく、さらに成績優秀だったクラスの男子を、なんでこうも私と違うのだという嫉妬と、諦めをもって、休み時間には誰とも交わらず突っ伏して寝ていた。
このころの生活で変化があったとすれば、自分の意思で部活動をしていたことだ。今思えばアニメにでもなりそうな内容だが、二十年近く休眠状態であったワンダーフォーゲル部を、仲間や先輩とともに再興した。
部活を通して、私は登山の魅力を知った。知らない世界を自分の足をもって開拓していく感覚、陸上にも通じる登るという心地よい辛さ、山頂での見晴らし、下山したときの安心感と飲み物のおいしさ。人生を捧げるといった風にはとてもならなかったけれど、それは私にとってとても大きな存在になった。
他者への関心が、対話や交流から内省へと向かった。高校一年の夏に、長くやめていた絵をふたたび描き始めた。
中学校が男子校だったこともあり、当時は異性としての関心が同性にあった。私は理想の少年を描いた。ガタイの良い男性的なそれでなく、中性的な顔立ちをした可愛い少年だ。月に一度ほど、A4のコピー用紙に、シャープペンと色鉛筆で思い描いた少年とシチュエーションを描いた。
高校二年になって、こんどは足繫く部活で通っていた奥多摩にちなむキャラクターをつくり、4コマ漫画を描き始めた。ときに棒人間のような私自身を登場させ、そのキャラクターと対話させた。少年への関心は少女への関心になった。いまでも私は、少女を描くときにその中性性を自認している。
半年も漫画のようなものを描くと、それなりに絵が上達していった。日常のつまらなさの中で、その変化が私は嬉しかった。大学入試に向けた受験期間も、勉強もそこそこにイラストを描き続けた。結果、第一志望には落ちて、第二志望の大学にそのまま入った。
誰が言ったのか、人間は思春期までに人格の形成が終わり、あとは死ぬまでその本質は変化しないという論がある。
つまり、今の私は上に記した人格の延長上にある。
どこまで行っても私は内向的で、他者への関心に乏しいところがあり、それよりも自分の構築した世界で遊んでいたいという思いが強い。
それでいてひとりは寂しい。私は見知らぬ人と挨拶をすることが好きだ。見知らぬ人とそれきりの会話を楽しむことが好きだ。登山や旅が好きなのも、没交渉の風潮にある昨今にあって、そのような余地が多く残されている場所だと思うからだ。
けれど、同じ人と深く付き合っていくことが怖いし、億劫だ。付き合いを続けていくと、その人の気に入らない部分が見えて、それが勝手に増大されていってしまう。現にいまも、古くからの友人の、自分の描いたイラストに対する感想が引っ掛かって、不信感を抑えられずにいる。
思い通りにいかない湧いてくる感情や、ここ数年尾を引いている腰痛や、そのような毎日の中で、私の身体や感情は私のものでなく、どこか私でない場所から来たものではないかと思っている。小さいころから存在した、ひどく酔ったときやどうしようもなく辛いとき、もう一人の自分が私を見ているような感覚を、いまはそう解釈している。
それでは、私とはなんだろう?
人間について考えるよりも、私は私について考えている。
そのような「つまらない」事を考えてもう何年になるだろう。
いまでも私は漫画とイラストを描いている。ここまで長く続けられたことは、その幸運に感謝するほかはない。
絵を仕事にした、とは未だ声を大にして言えないけれど、道の上には立っていると信じていたい。
----
前(2020年)記事の、「本題」とはいったい何だったのだろう。忘れてしまった。
まあ、忘れるような内容だったということだ。
私が漫画を描き始めたのは小学校に入るころだった。
親しい動物をキャラクターとして、コマや演出など関係なしに、A4の裏紙に落ちもないストーリーを作っていった。
漫画を描き始めたころ、同じく没頭していたのが、架空の地図を作ることだった。
やはりA4の裏紙に、架空の鉄道会社をつくり、路線図と車両を描いた。
当時の私は決して人間を描こうとはしなかった。人間嫌いとまでは言わないけれど、とても内向的で、友人との遊びよりもひとり地図と漫画遊びに耽った。
ほんの一部の親族や友人を除いて、他人が怖かった。早生まれで身体が小さいこともあったかもしれない。自分を前に出すことができず、出す気も起らなかった。
中学校に入り、その学校は運動部への加入が義務であったので、私は陸上部に入った。
そこは他の部活を選ばなかった生徒が選ぶ部で、それほどモチベーションの高い場所ではなかったけれど、それでも私も週に何度かは全力で走ったり砲丸を投げたりした。
他人との干渉が不得手で、細かな意図を読むことができず、チームプレイは大いに苦手だった私にとって、ひとりで身体を動かすことは気持ちよかった。動いている間はその行動にのみ集中できた。
どこまでも内向的だった私の世界は、運動という言語によってすこしだけ外に開かれた。下校途中にコンビニの駐車場で買い食いする悪友もできた。私の当時のやんちゃごとはその程度で、酒煙草に興じるクラスメイトを横目に見ながら、優等生を演じていた。
交流があれば衝突もあり、というより私が一方的に押されていたのだが、からかいやいじめに近いことも大いにあった。身体的な特徴をからかわれたときは、それは嫌で仕方なかった。良くも悪くもむき出しの環境だった。
勉強と運動と痛みとで、私の中学校生活は形容できる。
このころは絵を描かなかった。自分の世界を構築するより、自分でない世界のほうに関心が向いていた時期だったと思う。
高校生となり、それまでとは違う大人数での学校生活となり、私は大いに苦しかった。
スクールカーストというものが存在するとしたら、私はかなり低いところにいただろう。運動部で明るく、さらに成績優秀だったクラスの男子を、なんでこうも私と違うのだという嫉妬と、諦めをもって、休み時間には誰とも交わらず突っ伏して寝ていた。
このころの生活で変化があったとすれば、自分の意思で部活動をしていたことだ。今思えばアニメにでもなりそうな内容だが、二十年近く休眠状態であったワンダーフォーゲル部を、仲間や先輩とともに再興した。
部活を通して、私は登山の魅力を知った。知らない世界を自分の足をもって開拓していく感覚、陸上にも通じる登るという心地よい辛さ、山頂での見晴らし、下山したときの安心感と飲み物のおいしさ。人生を捧げるといった風にはとてもならなかったけれど、それは私にとってとても大きな存在になった。
他者への関心が、対話や交流から内省へと向かった。高校一年の夏に、長くやめていた絵をふたたび描き始めた。
中学校が男子校だったこともあり、当時は異性としての関心が同性にあった。私は理想の少年を描いた。ガタイの良い男性的なそれでなく、中性的な顔立ちをした可愛い少年だ。月に一度ほど、A4のコピー用紙に、シャープペンと色鉛筆で思い描いた少年とシチュエーションを描いた。
高校二年になって、こんどは足繫く部活で通っていた奥多摩にちなむキャラクターをつくり、4コマ漫画を描き始めた。ときに棒人間のような私自身を登場させ、そのキャラクターと対話させた。少年への関心は少女への関心になった。いまでも私は、少女を描くときにその中性性を自認している。
半年も漫画のようなものを描くと、それなりに絵が上達していった。日常のつまらなさの中で、その変化が私は嬉しかった。大学入試に向けた受験期間も、勉強もそこそこにイラストを描き続けた。結果、第一志望には落ちて、第二志望の大学にそのまま入った。
誰が言ったのか、人間は思春期までに人格の形成が終わり、あとは死ぬまでその本質は変化しないという論がある。
つまり、今の私は上に記した人格の延長上にある。
どこまで行っても私は内向的で、他者への関心に乏しいところがあり、それよりも自分の構築した世界で遊んでいたいという思いが強い。
それでいてひとりは寂しい。私は見知らぬ人と挨拶をすることが好きだ。見知らぬ人とそれきりの会話を楽しむことが好きだ。登山や旅が好きなのも、没交渉の風潮にある昨今にあって、そのような余地が多く残されている場所だと思うからだ。
けれど、同じ人と深く付き合っていくことが怖いし、億劫だ。付き合いを続けていくと、その人の気に入らない部分が見えて、それが勝手に増大されていってしまう。現にいまも、古くからの友人の、自分の描いたイラストに対する感想が引っ掛かって、不信感を抑えられずにいる。
思い通りにいかない湧いてくる感情や、ここ数年尾を引いている腰痛や、そのような毎日の中で、私の身体や感情は私のものでなく、どこか私でない場所から来たものではないかと思っている。小さいころから存在した、ひどく酔ったときやどうしようもなく辛いとき、もう一人の自分が私を見ているような感覚を、いまはそう解釈している。
それでは、私とはなんだろう?
人間について考えるよりも、私は私について考えている。
そのような「つまらない」事を考えてもう何年になるだろう。
いまでも私は漫画とイラストを描いている。ここまで長く続けられたことは、その幸運に感謝するほかはない。
絵を仕事にした、とは未だ声を大にして言えないけれど、道の上には立っていると信じていたい。
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前(2020年)記事の、「本題」とはいったい何だったのだろう。忘れてしまった。
まあ、忘れるような内容だったということだ。
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前回記事を上げてから4年近く経っていたことに戦慄しました。4年前がそんなに昔のことに思えなくなったことについて、ジャネの法則に震えるとともに、この間自分は一体何をやってたんだろうという思いが去来します。この間の時間の薄さはまるで出がらしの紅茶のよう。
4年前のエントリーで書いた「未来への自分の手紙」という文言、噛みしめながらこうしてキーボードを打ち込むのです。その時の感覚やセンスを通した世の中のことだったり人のことだったりを、推敲も校正もせず刻み込む。気取った自分もそれに対して嫌悪感をもつ自分も、残してさえくれればそれは貴重な足跡となって、後年の自分の慰めになってくれるやもしれないのです。
そういう意味では、数年飛ばしでもこの場所に足跡を連ねてくれた過去の自分に感謝します。よくやった、と言いたい。
なにより、ここもいつかは消えてくれるから都合がいい(笑)。ブログというのは私企業が提供するサービスです。SNSやらなんやらでブログの文化もとっくに下火になってしまった昨今、ヤフーブログだって閉鎖しましたし、ここもいずれはそうなるでしょう。そのときにこれらの文章を残すか残さぬかの判断は、未来の自分に託しましょう。
否定ではなく肯定したい、ということを、アラサーと呼ばれる年代に至りようやく感じはじめました。いいじゃない、高校生の自分が愈々とか嘗てとかいう言い回しして気取っていたって。間違いなくそういう気質があったのは事実です。
だけれど、2016年の自分はこれにネガティブな反応を示している。考察を試みるに、この時点では高校生の自分と当時の自分がまだ近しいものであったが故の反応ではないかと。今となっては、親戚の子供をみるような目で当時のエントリーを読むことができるので、まあ、やっぱり月日は経っているんだなあ・・・。
前置きが長い文章は好きでないのですが、まあこうしてうだうだと書き連ねているところは、嫌よ嫌よも好きのうちとかいうことばで形容されるのでしょうか。好きの反対は無関心、その通り。前置きといったからには本題があるわけですが、くどいので別のエントリーにて。
今回は、大持山の肩から下山までを取り上げます。
大した内容ではないはずなのですが、随分と時間がかかってしまいました。
大持山の肩に辿り着いたとき、身体はかなりボロボロの状態でした。しかしここで人と話して、武甲山まで歩ききるというモチベーションが復活すると、それに合わすように身体も復活していきました。まだまだ自分の体のことも良くわからないのだな、と実感した瞬間でした。
この時点での水の残量は、1Lとなっていました。 とうとう1.5Lあったアクエリアスも全て飲み切り、のこりはすべて真水です。 チョコレートもほとんど食べきり、ウィダーもウノタワでの休憩中に飲み干してしまいました。残るカロリー源は数個ある塩飴のみとなりました。 しかし、これから日が暮れて気温が下がるため、水分の摂取量は減るでしょう。さらにここからは、おもな行程が下山となるので、この残量でも持つと判断しました。
15:04に登山続行の判断をして、荷物をすべて背負って大持山山頂へと発ちました。
15:11 大持山山頂(1294m)
大持山の肩から標高差はおよそ50m、約7分で山頂に到着です。坂道はそこそこ急でしたが、鳥坂峠前後の道に比べれば穏やかな道です。山頂は樹林帯で、展望はほとんどありません。ですが、有間山のタタラの頭や橋小屋の頭に比べれば開放感はあります。
先ほど十分な休息をとったうえ、気力が持ち直していたので、ここはすぐに通過しました。
ここから小持山までの区間は、距離はないもののすこし険しい区間に入ります。これまでほとんど現れなかった岩場歩きとなるのです。疲労した状態での岩場歩きは、滑落遭難の要因となり推奨されない行動ですが、これまでにはなかった場面への転換に気分は高まり、足はどんどん進みました。どうやらこの区間に、西側の両神山にかけてがよく見える岩があるそうですが、気付かずに通過してしまいました。ちなみに、数カ所ある岩場は雨天下や凍結しないかぎりはまったく難しくありません。
標高差でいえば、標高約1205mの鞍部まで下り、1273mの小持山まで登り返すことになりますので、だいたい下り90m登り70mです。ですが子持山の手前にはやはり小ピークがいくつかあり、その頂上に立つたびにやきもきさせられました。
15:38 小持山山頂(1273m)
精神は復活してそれにつられて身体もある程度復調しましたが、やはり疲労は溜まっていたようです。小持山山頂手前では、何もないところで何度かつまづきそうになりました。
ここも灌木に囲まれてそれほど展望がありませんが、周りに大木が少ないためか開けていて小気味良い庭園の風情があります。
ここからは、正面に武甲山の姿を見ることができます。いつも秩父盆地から見上げる採石場としての武甲山でなく、(人工林であるものの)旧来の自然が残る武甲山です。大規模な採掘が始まる昭和中期までは、秩父盆地からもこのような山が眺められたことが、絵葉書や写真にいくつも残っています。
武甲山の向こうにはもはや尾根は無く、秩父盆地から関東平野に続く「空」が感じられ、まるで大海原に突き出る岬のように思えました。武甲山こそが秩父と飯能を隔てる稜線の終点となり、今回の長い長い山歩きの終点になるのです。これまでは大持山と小持山に遮られて見えなかった終点が、ここまで来てやっと見えたところに安堵するとともに、誇らしい気分にもなりました。 もし大持山の肩から下山していた場合、この山をこの気持ちで眺めることはできなかったでしょう。むしろ目をそむけ続けていたに違いありません。
小持山にはベンチなどはないので地べたに腰を下ろし、15:45に出発しました。
小持山から「シラジクボ」と呼ばれる鞍部を経て武甲山に至る、尾根歩き最後の区間です。シラジクボまでは、いくつかの小ピークを踏みながら下り、シラジクボから武甲山までは男らしい一本道の直登です。最後の最後に余計なもののない直登を持ってきたのは、このルートの良心なのかもしれません。
シラジクボの標高は約1065m、武甲山は1304mなので、おおよそ下り210m、登り240mとなります。登らなければならない高さも、とうとう東京都庁(243m)より少なくなりました。あまり嬉しくない例えですね。
ともかく、小持山を出ると武甲山を眺めながらやや急な下り坂を進んでいきます。
一度大きく下ると、もうシラジクボまでは大きなアップダウンがありません。このあたりは、麓の一の鳥居にクルマを停めて大持山と武甲山を周回するハイカーがかなり多いので、道も踏み均されている印象があります。あとは今までどおり小ピークをいくつか超えながら、ゆるゆるとシラジクボに至るのかと思ったら・・・。
巻いた!とうとう登山道が小ピークを巻きました(感涙)
林道に逃げられる仁田山を除くと、これより前に明瞭に尾根を巻いたと分かる地点は・・・踊平の先でしょうか。はるか昔のことに感じられます。
登山者の多さと登山道の整備具合は、やはりある程度正比例するのでしょうかね。
16:10 シラジクボ(標高約1065m)
歩きやすい道を進んでいくと、シラジクボに到着です。現地の道標には標高1088mとありますが、地理院地図を見ると1088mの水準点は現在地からひとつ南の小ピークに打ってあり、シラジクボ(表記はなし)の標高は約1065mだと思われます。ひょっとしたら水準点のある小ピークのことをシラジクボと読んで、今いる鞍部は名無しの鞍部なのかもしれませんが、どちらにしても道標の表記は誤解を招いてしまいそうです。20m程度の違いですが、登山者は標高を気にする人が自分を含めて多いので、ここは気になりました。累積標高も変わりますしね。
シラジクボは十字路になっており、持山寺跡を経て一の鳥居に下ることも、長者屋敷の頭に下ることもできます。長者屋敷の頭は、武甲山から浦山口駅への下山の際に通る予定なので、ここでもルートのショートカットができます。しかし、ここまで来たら武甲山に登らない手はありません。性格上ここまで来てしまったら、日が暮れても登っていたことでしょう。
ですが、これならどうやら明るいうちに武甲山山頂に立つことができそうです。正直なところ、武甲山まで到達できても明るいうちに到達できるかは相当怪しいと考えていたので、安心しました。日が長い時期だからできる芸当だと思いました。(秋から冬だと気温が低いので水の消費量が減り、軽量化できるのでペースが上げられるかもしれませんが、リスクは高いです)
明るいうちに着けることが分かり、もう急ぐことはありません。最後の登りに備えて、じっくりと足を休めました。塩飴を舐めて、16:19に出発しました。
最後の登りです。下山路である裏参道に、登り返しがほぼないことは知っていました。今回のルートはほとんどが初見のルートでしたが、川苔山と武甲山についてはそれ以前に登ったことのある山でした。最後の登りを噛み締めながら登ります。
バイケイソウの生い茂る道を登って行くと、すぐに急坂になります。何度か緩斜面を挟みつつも下り返すことはなく、そのまま山頂手前まで上り詰めます。半ば無理だと諦めてた川苔山から武甲山への日帰り縦走が、いよいよ達成目前であることに気分は高まり、山頂手前までの標高差約200mをわずか20分程度で登り切っていました。一体疲労とは何だったのでしょう。もしかしたらアドレナリンというものが出ていたのかもしれません。人体の神秘です。
16:43 武甲山御嶽神社(標高約1280m)
とうとう今回の縦走の終点、武甲山の山頂に到着しました。
武甲山の山頂部は南北に広がっており、南には公衆トイレや休憩舎、中央部に御嶽神社、北端に三角点と展望台があります。もちろん誰もいませんでした。
この御嶽神社は、もともと北に数十メートル離れたところに鎮座していたのですが、石灰石採掘に伴い山頂部が削られる際に移転したそうです。もともとの山頂は標高1336mあり、現在の標高より32mも高いものでした。古い地形図や写真を参照すると、現在の神社から北東方向にさらに尾根が続いており、当時の山頂は植物も生えておらず見晴らしがよく、高山の趣があったことが分かります。この山頂が立入禁止になったのは1979年5月のことで、1日に数千人の登山者が登頂し山頂は大混雑だったそうです。同年9月に山頂部が爆破、三角点も移設され、標高は1295mになりました。しかしその後再調査の結果、山頂部の最高地点は1304mであることが分かり、その地点には水準点が設置され現在の標高に改められた・・・という経緯があります。
神社で無事に縦走ができたことへのお礼と無事に下山できることを祈願し、展望台に向かいます。いままで何度か武甲山には登ったものの、いつも第2展望台は素通りしてきたのですが、今回はまずそちらに向かいます。さて、どのような展望があるのでしょう。
途中には鐘つき堂がありますが、撞木がないので撞くことができませんでした。このすぐ裏手に移設された武甲山の三角点がある・・・とのことでしたが、これを知ったのは今回の山行の後だったので、タッチもできていませんし写真も撮れていません。次回登った時の宿題になりそうです。
第2展望台は木立に遮られ、思ったほどの展望は得られませんでした。丸山から堂平山、つまり北東方向が見えるかな・・・という具合です。東側の展望は、ここより大持山の肩のほうがずっと優れているのが現状です。見える景色もほとんど変わりませんからね。
それよりも興味深いのが、ここから柵の向こう側に降りていく階段です。これは採石場に繋がっており、そこからトンネル経由で麓まで車で降りることができるそうです。御嶽神社の神事の際は、神職の方はこのルートで上がってこられる・・・という噂はありますが確かではありません。登山関係なしに、採石場の中を貫くトンネルは一度通ってみたいものです。
消えた山頂はこの向こう側にあったはずですが、今ではその名残は何も残っていません。
第2展望台には座れる場所もなく、思ったより居心地が良くなかったので第1展望台に移動します。第1展望台には山頂を示す標識もあり、一端の山頂らしくあります。
その途中には1304mの水準点があるそうですが、柵を超えないとそれを見ることが出来ません。まあ、最高地点が踏めない山はゴマンとあります(浅間山とか草津白根山とか)ので仕方ないのですが。
16:48 武甲山頂(標高1304m)到着
大縦走の終点です。これより先に進む尾根はありません。眼下には秩父盆地が広がっており、何度見ても感慨深い眺めですが、今回はそれもひとしおです。誰も居ない山頂で、思わず歓喜の叫び声を上げました。
本当ならここから筑波、高原、日光、上越国境、浅間、八ヶ岳、奥秩父、さらには北アルプスも望む事ができるそうですが、もう贅沢は言いません。これに近い眺めは、以前冬に登頂した丸山から堪能できていますので、それほど展望に対する欲はありませんでした。まあ初冬にでもまた三角点の件と併せて登ってみたいものです。
秩父の街は日暮れを示す橙色のベールに包まれており、どこか気だるい雰囲気を出しています。天気が急変することもなく晴天のまま1日を過ごせたのは幸運でした。
山頂の標識の根本には、このような石の標柱があります。三角点の類と見間違えそうになりますが、これは記念碑のようなものです。ここに刻まれた『1336-41+9』は、先に述べた武甲山の標高の変遷を意味しています。その隣にある、誰かの手作りらしいプラカードには、『2015年9月13日午後12時30分に武甲山に黙祷』云々とありますが、どうやら「ありがとう武甲山の会」というかつての武甲山を懐かしむ会があり、それに関連するプラカードのようです。公共の山頂にこのような個人的なものを設置(放置?)することは、いかがなものかと思うのですが、どうなのでしょうか・・・。撤去されてないからいいのかな?
岩に腰掛けると、やはり通常の山では体験できないほどの疲労感がやってきました。このままじっとしていると、再び立ち上がることが出来なくなってしまいそうです。しかしここは縦走の終点といえどいまだ山頂、向かうべき人里はまだ1000mの高低差の向こう側です。現在時刻は17時前、この日のさいたまの日没時刻が18:42だったので、あと1時間50分で闇に閉ざされていまいます。ここからは歩いたことのある道といえど、疲労した状態で夜の登山道を歩くことはかなり危険なことです。短いですが沢沿いを歩く場面もあり、そこで滑落したらどのようなことになるか分かりません。幸いそのことに思いが回り、なんとか立ち上がることができました。
ここからの下山路は、山頂から西に進んで長者屋敷の頭という地点を経由し、そこからしばらく尾根を西へ、標高約800m地点から一気に下降し沢を渡って林道橋立線の終点へ。終点からは浦山口駅まで3km少々の車道歩きです。林道の終点まで地図コースタイムで1時間30分、前回歩いたときはアイゼンの脱着含めて1時間40分で下っています。林道まで降りてしまえば、暗くなっても大丈夫です。さらに今日みたいな快晴の日は、日没から15分程度はまだ何とか明るいものです。
・・・明るいうちに林道に降りたい! 下山です!
山頂で16分休憩し、17:04に下山を開始しました。日没まであと1時間38分です。
一般的に登山では、登りは体力、下りはバランス力が必要だとされますが、とんでもない、自分にとっては下りのほうが制御をとるのに体力を使ってしまいます。道自体は岩や木の根も少なく下りやすい状態が続きますが、それでも足がふらつきます。高度計と地図を見るたびに、「まだこれしか下っていないのか」と苦しい時間が続きます。
とうとう手足の末端が痺れてきました。これは紛れも無い脱水の症状です。目元が霞んできて、頭がぼんやりとしてきます。思考能力も低下してきました。完全に脱水状態でした。
17:38 長者屋敷の頭(標高約975m)
這々の体で、長者屋敷の頭に到着しました。ここは「頭」ですが、ただの尾根筋の傾斜が緩んだ場所であり登り返しはありません。ここでシラジクボから武甲山を巻く道と合流します。かつてここから武甲山の北面に向かう道が延びていたそうですが、道の入口には「廃道」という看板が通せんぼしています。
ベンチなどありませんが、構わず地べたにへたり込みます。すぐさま残っていた水を飲んで、塩飴を3個口に入れて噛み砕きました。このときは「塩分不足によって痺れが来ている」と考えていたので、水よりもむしろ塩分を摂ることを重視していましたが、実際は水分も全然足りていなかったのです。それでも、10分も休んでいると痺れが無くなってきたので、急いで立ち上がり、17:50には歩き始めました。日暮れはもうすぐです。
長者屋敷の頭からは尾根に乗り、ゆるやかに西に向かいます。ここは急げる区間なので、無理やり早足になって進みました。やがて左手に植林が現れると、左に折れて尾根から外れます。ここからは沢筋まで一気に約200m下降します。うんざりするほどのつづら折りが続きますが、道自体はそれほど悪くありません。鳥坂峠への下りよりはずっと歩きやすいです。
それでも下っていると、明らかに暗くなってきているのが分かります。ただでさえ樹林帯の中で暗い上に、太陽は早々に西の山に沈んてしまったのです。日没時刻は18:42ですが、秩父の山中ではそれよりもずっと早くに日没を迎えてしまいました。焦りますが、下りなので慎重に足を運ばなければいけません。
沢筋に出て、シラジクボから沢沿いに降りる道(通行止でした)と合流します。ここから沢を左に見ながらゆるやかに下って行くと、木橋で沢(橋立川)を超えます。もともとはこれより立派な橋が掛かっていたようですが落とされており、いまでは橋台のみが残っています。
18:33 林道橋立線終点(標高約510m)
橋を渡って川の南岸を進み、今度は手すり付きの立派な橋を渡ると林道の終点です。日はすでに沈んでおり、見上げる空には星が見え始めていました。
しかし、これでひとまずは明るいうちに安全圏に脱出できたことになります。たまらず林道脇の草むらに寝っ転がりました。再び脱水の症状が出ていたので、残りの水をすべて飲み干し、さらに塩飴を舐めました。これだけ塩飴に助けられた日は、今までありませんでした。炭水化物をほとんど取っていないのに、よくここまで歩ききれたなと自分をほめているうちに、急に意識が遠のいていきました。
・・・ものの10分ほどですが、意識を失っていたようです。
ですが痺れは消えています。ここはもう安全圏ですが、ここにいる限り家に帰ることはできません。18:45に歩き出しました。
ヘッドライトを付けると視界が極端に狭くなるので、まだ使いません。出来る限り暗闇に目を慣らしながら進みます。月明かりはないのですが、意外と夜でも前は見えるのもので、轍に足を取られないように慎重に未舗装の林道を歩いてきました。途中、ヘアピンカーブを超えて橋立川を渡り川の右岸に出たあたりで完全に夜になりましたが、ライトは点けませんでした。
そのうちに集落の中に入り、舗装路となり、暗闇の中に不気味なシルエットを作る橋立鍾乳洞の断崖を右に見ながら進んでいき、県道の橋をくぐってやや細い道を進むと、ようやく駅が見えてきました。奥多摩から秩父まで1日で歩き通すという目標を、とうとう成し遂げたのです。
線路をくぐる手前の道路脇に水が勢い良く湧いており、ご丁寧に柄杓までありました。迷わずかぶりつき、続いて手を顔を洗い流し、タオルも絞りました。武甲山の石灰岩でろ過された、癖のない冷たい水でした。
19:35 浦山口駅(標高約247m)到着
鳩ノ巣駅を出発してから13時間35分で、今回の山行の終点、秩父鉄道浦山口駅に到着しました。
切符を購入したら、まずは電車の時刻の確認です。次の電車は20:08の羽生行き、30分以上来ませんが、着替えて一息つくにはちょうどいい長さでしょう。どうでもいいですが、秩父鉄道はいまとなりの影森でほとんどの運用が分断されているみたいですね。もちろん不便だなとも思いますが、なにより影森~三峰口の廃止の布石でなければいいのですが・・・。
このあと御花畑駅で下車、西武秩父駅へは徒歩5分の連絡ですが、この時は(執筆現在も)リニューアル工事中で少し遠回りをされられました。西武秩父駅はこのリニューアル工事によって、温泉施設ができるそうです。秩父は全体的に駅から徒歩圏にある温泉施設が不足しているので、これはありがたいですね。
西武秩父からは西武秩父線、池袋線と乗り継いで帰宅しました。
今日一日の行程を車内で反芻していると、深い眠りに落ちていました。
ちなみに、国分寺駅に停めていた自転車は後日回収しに行きました。
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推敲もせず長々と書いてしまいました。
カシミール3Dで今回の行程を地図にプロットしたところ、
沿面距離 28.1km
累積標高 登り2672m 下り2747m
という結果でした。昭文社の「山と高原地図」では12時間50分の道のりだそうです。
実際は休憩込みで13時間半で歩いてますから、これが今後のロングトレイルの目安になりそうです。これだけの距離も標高差も1日では歩いたことが無かったので、正直自信がつきました(笑)
ロングトレイルで次なる目標は三頭山~高尾山の笹尾根日帰り、ゆくゆくは甲斐駒ケ岳黒戸尾根や、剱岳早月尾根も日帰りで制覇してみたい・・・と思うようになってしまいました。甲斐駒や剱はともかく、笹尾根は涼しくなったら挑戦してみたいですね。今回の尾根よりなだらかだと聞きますし、正直陣馬山から先は暗くなっても歩けると思うので・・・。
だらだらと書いていたら、今回の一連の記事の文字数が22000字を超えてしまいました。
原稿用紙なら55枚ぶんですが、これ推敲すると半分以下に削れそうですね(笑)
ここまで飽きずに読んでくださった方も、流し読みの方も、ありがとうございました。
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最後に感想を。
奥武蔵から秩父の山域は、基本暑い時期に歩くものではないと再確認。
距離30キロ、累積標高2500m超の山は(条件が良ければ)日帰りで歩くことができる。
身体の調子は精神に左右されるところが非常に多い。
人との交流の重要さを改めて感じた。
水分は摂りすぎるということは無い(至言)
そしてなによりも・・・
し ん ど か っ た
(終わり)
大した内容ではないはずなのですが、随分と時間がかかってしまいました。
大持山の肩に辿り着いたとき、身体はかなりボロボロの状態でした。しかしここで人と話して、武甲山まで歩ききるというモチベーションが復活すると、それに合わすように身体も復活していきました。まだまだ自分の体のことも良くわからないのだな、と実感した瞬間でした。
この時点での水の残量は、1Lとなっていました。 とうとう1.5Lあったアクエリアスも全て飲み切り、のこりはすべて真水です。 チョコレートもほとんど食べきり、ウィダーもウノタワでの休憩中に飲み干してしまいました。残るカロリー源は数個ある塩飴のみとなりました。 しかし、これから日が暮れて気温が下がるため、水分の摂取量は減るでしょう。さらにここからは、おもな行程が下山となるので、この残量でも持つと判断しました。
15:04に登山続行の判断をして、荷物をすべて背負って大持山山頂へと発ちました。
15:11 大持山山頂(1294m)
大持山の肩から標高差はおよそ50m、約7分で山頂に到着です。坂道はそこそこ急でしたが、鳥坂峠前後の道に比べれば穏やかな道です。山頂は樹林帯で、展望はほとんどありません。ですが、有間山のタタラの頭や橋小屋の頭に比べれば開放感はあります。
先ほど十分な休息をとったうえ、気力が持ち直していたので、ここはすぐに通過しました。
ここから小持山までの区間は、距離はないもののすこし険しい区間に入ります。これまでほとんど現れなかった岩場歩きとなるのです。疲労した状態での岩場歩きは、滑落遭難の要因となり推奨されない行動ですが、これまでにはなかった場面への転換に気分は高まり、足はどんどん進みました。どうやらこの区間に、西側の両神山にかけてがよく見える岩があるそうですが、気付かずに通過してしまいました。ちなみに、数カ所ある岩場は雨天下や凍結しないかぎりはまったく難しくありません。
標高差でいえば、標高約1205mの鞍部まで下り、1273mの小持山まで登り返すことになりますので、だいたい下り90m登り70mです。ですが子持山の手前にはやはり小ピークがいくつかあり、その頂上に立つたびにやきもきさせられました。
15:38 小持山山頂(1273m)
精神は復活してそれにつられて身体もある程度復調しましたが、やはり疲労は溜まっていたようです。小持山山頂手前では、何もないところで何度かつまづきそうになりました。
ここも灌木に囲まれてそれほど展望がありませんが、周りに大木が少ないためか開けていて小気味良い庭園の風情があります。
ここからは、正面に武甲山の姿を見ることができます。いつも秩父盆地から見上げる採石場としての武甲山でなく、(人工林であるものの)旧来の自然が残る武甲山です。大規模な採掘が始まる昭和中期までは、秩父盆地からもこのような山が眺められたことが、絵葉書や写真にいくつも残っています。
武甲山の向こうにはもはや尾根は無く、秩父盆地から関東平野に続く「空」が感じられ、まるで大海原に突き出る岬のように思えました。武甲山こそが秩父と飯能を隔てる稜線の終点となり、今回の長い長い山歩きの終点になるのです。これまでは大持山と小持山に遮られて見えなかった終点が、ここまで来てやっと見えたところに安堵するとともに、誇らしい気分にもなりました。 もし大持山の肩から下山していた場合、この山をこの気持ちで眺めることはできなかったでしょう。むしろ目をそむけ続けていたに違いありません。
小持山にはベンチなどはないので地べたに腰を下ろし、15:45に出発しました。
小持山から「シラジクボ」と呼ばれる鞍部を経て武甲山に至る、尾根歩き最後の区間です。シラジクボまでは、いくつかの小ピークを踏みながら下り、シラジクボから武甲山までは男らしい一本道の直登です。最後の最後に余計なもののない直登を持ってきたのは、このルートの良心なのかもしれません。
シラジクボの標高は約1065m、武甲山は1304mなので、おおよそ下り210m、登り240mとなります。登らなければならない高さも、とうとう東京都庁(243m)より少なくなりました。あまり嬉しくない例えですね。
ともかく、小持山を出ると武甲山を眺めながらやや急な下り坂を進んでいきます。
一度大きく下ると、もうシラジクボまでは大きなアップダウンがありません。このあたりは、麓の一の鳥居にクルマを停めて大持山と武甲山を周回するハイカーがかなり多いので、道も踏み均されている印象があります。あとは今までどおり小ピークをいくつか超えながら、ゆるゆるとシラジクボに至るのかと思ったら・・・。
巻いた!とうとう登山道が小ピークを巻きました(感涙)
林道に逃げられる仁田山を除くと、これより前に明瞭に尾根を巻いたと分かる地点は・・・踊平の先でしょうか。はるか昔のことに感じられます。
登山者の多さと登山道の整備具合は、やはりある程度正比例するのでしょうかね。
16:10 シラジクボ(標高約1065m)
歩きやすい道を進んでいくと、シラジクボに到着です。現地の道標には標高1088mとありますが、地理院地図を見ると1088mの水準点は現在地からひとつ南の小ピークに打ってあり、シラジクボ(表記はなし)の標高は約1065mだと思われます。ひょっとしたら水準点のある小ピークのことをシラジクボと読んで、今いる鞍部は名無しの鞍部なのかもしれませんが、どちらにしても道標の表記は誤解を招いてしまいそうです。20m程度の違いですが、登山者は標高を気にする人が自分を含めて多いので、ここは気になりました。累積標高も変わりますしね。
シラジクボは十字路になっており、持山寺跡を経て一の鳥居に下ることも、長者屋敷の頭に下ることもできます。長者屋敷の頭は、武甲山から浦山口駅への下山の際に通る予定なので、ここでもルートのショートカットができます。しかし、ここまで来たら武甲山に登らない手はありません。性格上ここまで来てしまったら、日が暮れても登っていたことでしょう。
ですが、これならどうやら明るいうちに武甲山山頂に立つことができそうです。正直なところ、武甲山まで到達できても明るいうちに到達できるかは相当怪しいと考えていたので、安心しました。日が長い時期だからできる芸当だと思いました。(秋から冬だと気温が低いので水の消費量が減り、軽量化できるのでペースが上げられるかもしれませんが、リスクは高いです)
明るいうちに着けることが分かり、もう急ぐことはありません。最後の登りに備えて、じっくりと足を休めました。塩飴を舐めて、16:19に出発しました。
最後の登りです。下山路である裏参道に、登り返しがほぼないことは知っていました。今回のルートはほとんどが初見のルートでしたが、川苔山と武甲山についてはそれ以前に登ったことのある山でした。最後の登りを噛み締めながら登ります。
バイケイソウの生い茂る道を登って行くと、すぐに急坂になります。何度か緩斜面を挟みつつも下り返すことはなく、そのまま山頂手前まで上り詰めます。半ば無理だと諦めてた川苔山から武甲山への日帰り縦走が、いよいよ達成目前であることに気分は高まり、山頂手前までの標高差約200mをわずか20分程度で登り切っていました。一体疲労とは何だったのでしょう。もしかしたらアドレナリンというものが出ていたのかもしれません。人体の神秘です。
16:43 武甲山御嶽神社(標高約1280m)
とうとう今回の縦走の終点、武甲山の山頂に到着しました。
武甲山の山頂部は南北に広がっており、南には公衆トイレや休憩舎、中央部に御嶽神社、北端に三角点と展望台があります。もちろん誰もいませんでした。
この御嶽神社は、もともと北に数十メートル離れたところに鎮座していたのですが、石灰石採掘に伴い山頂部が削られる際に移転したそうです。もともとの山頂は標高1336mあり、現在の標高より32mも高いものでした。古い地形図や写真を参照すると、現在の神社から北東方向にさらに尾根が続いており、当時の山頂は植物も生えておらず見晴らしがよく、高山の趣があったことが分かります。この山頂が立入禁止になったのは1979年5月のことで、1日に数千人の登山者が登頂し山頂は大混雑だったそうです。同年9月に山頂部が爆破、三角点も移設され、標高は1295mになりました。しかしその後再調査の結果、山頂部の最高地点は1304mであることが分かり、その地点には水準点が設置され現在の標高に改められた・・・という経緯があります。
神社で無事に縦走ができたことへのお礼と無事に下山できることを祈願し、展望台に向かいます。いままで何度か武甲山には登ったものの、いつも第2展望台は素通りしてきたのですが、今回はまずそちらに向かいます。さて、どのような展望があるのでしょう。
途中には鐘つき堂がありますが、撞木がないので撞くことができませんでした。このすぐ裏手に移設された武甲山の三角点がある・・・とのことでしたが、これを知ったのは今回の山行の後だったので、タッチもできていませんし写真も撮れていません。次回登った時の宿題になりそうです。
第2展望台は木立に遮られ、思ったほどの展望は得られませんでした。丸山から堂平山、つまり北東方向が見えるかな・・・という具合です。東側の展望は、ここより大持山の肩のほうがずっと優れているのが現状です。見える景色もほとんど変わりませんからね。
それよりも興味深いのが、ここから柵の向こう側に降りていく階段です。これは採石場に繋がっており、そこからトンネル経由で麓まで車で降りることができるそうです。御嶽神社の神事の際は、神職の方はこのルートで上がってこられる・・・という噂はありますが確かではありません。登山関係なしに、採石場の中を貫くトンネルは一度通ってみたいものです。
消えた山頂はこの向こう側にあったはずですが、今ではその名残は何も残っていません。
第2展望台には座れる場所もなく、思ったより居心地が良くなかったので第1展望台に移動します。第1展望台には山頂を示す標識もあり、一端の山頂らしくあります。
その途中には1304mの水準点があるそうですが、柵を超えないとそれを見ることが出来ません。まあ、最高地点が踏めない山はゴマンとあります(浅間山とか草津白根山とか)ので仕方ないのですが。
16:48 武甲山頂(標高1304m)到着
大縦走の終点です。これより先に進む尾根はありません。眼下には秩父盆地が広がっており、何度見ても感慨深い眺めですが、今回はそれもひとしおです。誰も居ない山頂で、思わず歓喜の叫び声を上げました。
本当ならここから筑波、高原、日光、上越国境、浅間、八ヶ岳、奥秩父、さらには北アルプスも望む事ができるそうですが、もう贅沢は言いません。これに近い眺めは、以前冬に登頂した丸山から堪能できていますので、それほど展望に対する欲はありませんでした。まあ初冬にでもまた三角点の件と併せて登ってみたいものです。
秩父の街は日暮れを示す橙色のベールに包まれており、どこか気だるい雰囲気を出しています。天気が急変することもなく晴天のまま1日を過ごせたのは幸運でした。
山頂の標識の根本には、このような石の標柱があります。三角点の類と見間違えそうになりますが、これは記念碑のようなものです。ここに刻まれた『1336-41+9』は、先に述べた武甲山の標高の変遷を意味しています。その隣にある、誰かの手作りらしいプラカードには、『2015年9月13日午後12時30分に武甲山に黙祷』云々とありますが、どうやら「ありがとう武甲山の会」というかつての武甲山を懐かしむ会があり、それに関連するプラカードのようです。公共の山頂にこのような個人的なものを設置(放置?)することは、いかがなものかと思うのですが、どうなのでしょうか・・・。撤去されてないからいいのかな?
岩に腰掛けると、やはり通常の山では体験できないほどの疲労感がやってきました。このままじっとしていると、再び立ち上がることが出来なくなってしまいそうです。しかしここは縦走の終点といえどいまだ山頂、向かうべき人里はまだ1000mの高低差の向こう側です。現在時刻は17時前、この日のさいたまの日没時刻が18:42だったので、あと1時間50分で闇に閉ざされていまいます。ここからは歩いたことのある道といえど、疲労した状態で夜の登山道を歩くことはかなり危険なことです。短いですが沢沿いを歩く場面もあり、そこで滑落したらどのようなことになるか分かりません。幸いそのことに思いが回り、なんとか立ち上がることができました。
ここからの下山路は、山頂から西に進んで長者屋敷の頭という地点を経由し、そこからしばらく尾根を西へ、標高約800m地点から一気に下降し沢を渡って林道橋立線の終点へ。終点からは浦山口駅まで3km少々の車道歩きです。林道の終点まで地図コースタイムで1時間30分、前回歩いたときはアイゼンの脱着含めて1時間40分で下っています。林道まで降りてしまえば、暗くなっても大丈夫です。さらに今日みたいな快晴の日は、日没から15分程度はまだ何とか明るいものです。
・・・明るいうちに林道に降りたい! 下山です!
山頂で16分休憩し、17:04に下山を開始しました。日没まであと1時間38分です。
一般的に登山では、登りは体力、下りはバランス力が必要だとされますが、とんでもない、自分にとっては下りのほうが制御をとるのに体力を使ってしまいます。道自体は岩や木の根も少なく下りやすい状態が続きますが、それでも足がふらつきます。高度計と地図を見るたびに、「まだこれしか下っていないのか」と苦しい時間が続きます。
とうとう手足の末端が痺れてきました。これは紛れも無い脱水の症状です。目元が霞んできて、頭がぼんやりとしてきます。思考能力も低下してきました。完全に脱水状態でした。
17:38 長者屋敷の頭(標高約975m)
這々の体で、長者屋敷の頭に到着しました。ここは「頭」ですが、ただの尾根筋の傾斜が緩んだ場所であり登り返しはありません。ここでシラジクボから武甲山を巻く道と合流します。かつてここから武甲山の北面に向かう道が延びていたそうですが、道の入口には「廃道」という看板が通せんぼしています。
ベンチなどありませんが、構わず地べたにへたり込みます。すぐさま残っていた水を飲んで、塩飴を3個口に入れて噛み砕きました。このときは「塩分不足によって痺れが来ている」と考えていたので、水よりもむしろ塩分を摂ることを重視していましたが、実際は水分も全然足りていなかったのです。それでも、10分も休んでいると痺れが無くなってきたので、急いで立ち上がり、17:50には歩き始めました。日暮れはもうすぐです。
長者屋敷の頭からは尾根に乗り、ゆるやかに西に向かいます。ここは急げる区間なので、無理やり早足になって進みました。やがて左手に植林が現れると、左に折れて尾根から外れます。ここからは沢筋まで一気に約200m下降します。うんざりするほどのつづら折りが続きますが、道自体はそれほど悪くありません。鳥坂峠への下りよりはずっと歩きやすいです。
それでも下っていると、明らかに暗くなってきているのが分かります。ただでさえ樹林帯の中で暗い上に、太陽は早々に西の山に沈んてしまったのです。日没時刻は18:42ですが、秩父の山中ではそれよりもずっと早くに日没を迎えてしまいました。焦りますが、下りなので慎重に足を運ばなければいけません。
沢筋に出て、シラジクボから沢沿いに降りる道(通行止でした)と合流します。ここから沢を左に見ながらゆるやかに下って行くと、木橋で沢(橋立川)を超えます。もともとはこれより立派な橋が掛かっていたようですが落とされており、いまでは橋台のみが残っています。
18:33 林道橋立線終点(標高約510m)
橋を渡って川の南岸を進み、今度は手すり付きの立派な橋を渡ると林道の終点です。日はすでに沈んでおり、見上げる空には星が見え始めていました。
しかし、これでひとまずは明るいうちに安全圏に脱出できたことになります。たまらず林道脇の草むらに寝っ転がりました。再び脱水の症状が出ていたので、残りの水をすべて飲み干し、さらに塩飴を舐めました。これだけ塩飴に助けられた日は、今までありませんでした。炭水化物をほとんど取っていないのに、よくここまで歩ききれたなと自分をほめているうちに、急に意識が遠のいていきました。
・・・ものの10分ほどですが、意識を失っていたようです。
ですが痺れは消えています。ここはもう安全圏ですが、ここにいる限り家に帰ることはできません。18:45に歩き出しました。
ヘッドライトを付けると視界が極端に狭くなるので、まだ使いません。出来る限り暗闇に目を慣らしながら進みます。月明かりはないのですが、意外と夜でも前は見えるのもので、轍に足を取られないように慎重に未舗装の林道を歩いてきました。途中、ヘアピンカーブを超えて橋立川を渡り川の右岸に出たあたりで完全に夜になりましたが、ライトは点けませんでした。
そのうちに集落の中に入り、舗装路となり、暗闇の中に不気味なシルエットを作る橋立鍾乳洞の断崖を右に見ながら進んでいき、県道の橋をくぐってやや細い道を進むと、ようやく駅が見えてきました。奥多摩から秩父まで1日で歩き通すという目標を、とうとう成し遂げたのです。
線路をくぐる手前の道路脇に水が勢い良く湧いており、ご丁寧に柄杓までありました。迷わずかぶりつき、続いて手を顔を洗い流し、タオルも絞りました。武甲山の石灰岩でろ過された、癖のない冷たい水でした。
19:35 浦山口駅(標高約247m)到着
鳩ノ巣駅を出発してから13時間35分で、今回の山行の終点、秩父鉄道浦山口駅に到着しました。
切符を購入したら、まずは電車の時刻の確認です。次の電車は20:08の羽生行き、30分以上来ませんが、着替えて一息つくにはちょうどいい長さでしょう。どうでもいいですが、秩父鉄道はいまとなりの影森でほとんどの運用が分断されているみたいですね。もちろん不便だなとも思いますが、なにより影森~三峰口の廃止の布石でなければいいのですが・・・。
このあと御花畑駅で下車、西武秩父駅へは徒歩5分の連絡ですが、この時は(執筆現在も)リニューアル工事中で少し遠回りをされられました。西武秩父駅はこのリニューアル工事によって、温泉施設ができるそうです。秩父は全体的に駅から徒歩圏にある温泉施設が不足しているので、これはありがたいですね。
西武秩父からは西武秩父線、池袋線と乗り継いで帰宅しました。
今日一日の行程を車内で反芻していると、深い眠りに落ちていました。
ちなみに、国分寺駅に停めていた自転車は後日回収しに行きました。
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推敲もせず長々と書いてしまいました。
カシミール3Dで今回の行程を地図にプロットしたところ、
沿面距離 28.1km
累積標高 登り2672m 下り2747m
という結果でした。昭文社の「山と高原地図」では12時間50分の道のりだそうです。
実際は休憩込みで13時間半で歩いてますから、これが今後のロングトレイルの目安になりそうです。これだけの距離も標高差も1日では歩いたことが無かったので、正直自信がつきました(笑)
ロングトレイルで次なる目標は三頭山~高尾山の笹尾根日帰り、ゆくゆくは甲斐駒ケ岳黒戸尾根や、剱岳早月尾根も日帰りで制覇してみたい・・・と思うようになってしまいました。甲斐駒や剱はともかく、笹尾根は涼しくなったら挑戦してみたいですね。今回の尾根よりなだらかだと聞きますし、正直陣馬山から先は暗くなっても歩けると思うので・・・。
だらだらと書いていたら、今回の一連の記事の文字数が22000字を超えてしまいました。
原稿用紙なら55枚ぶんですが、これ推敲すると半分以下に削れそうですね(笑)
ここまで飽きずに読んでくださった方も、流し読みの方も、ありがとうございました。
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最後に感想を。
奥武蔵から秩父の山域は、基本暑い時期に歩くものではないと再確認。
距離30キロ、累積標高2500m超の山は(条件が良ければ)日帰りで歩くことができる。
身体の調子は精神に左右されるところが非常に多い。
人との交流の重要さを改めて感じた。
水分は摂りすぎるということは無い(至言)
そしてなによりも・・・
し ん ど か っ た
(終わり)
今回は、都県境の日向沢の峰から、大持山の肩までを取り上げたいと思います。
都県境到達時点での残りのエネルギー源は、水が2.5L、食料はチョコレート一箱と塩飴が10個、ウィダーがひとつでした。
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10:30 有間山分岐(オハヤシの頭)
ここより埼玉県に入ります。同時に、山域としての「奥多摩」からも外れ、「奥武蔵/秩父」のエリアに入ります。ふたつのエリアを結ぶという目的だけを見れば、今回の山行はこの時点で半分達成されました。あとは有間峠から一目散に名栗湖にでも降りれば、この目的は完全に達成されます。しかし、今回の山行の本当の目的は「トレーニング」です。足はまだ十分に動きます。幸か不幸か炭水化物をほとんど取っていないおかげか身体も軽いような気がします。ついでに言えば、名栗に降りると飯能までのバスが中々にいい値段をとられるのを知っていたので、西武線の駅まで行きたいというセコい欲もありました。またどうでもいいことを長々と書いてしまいました。行けるだけ行きましょう。
まずは、有間峠に向けて下ります。オハヤシの頭からはおよそ200mの標高差があります。
これまでの防火帯の広々とした道からは一転、狭くて見通しの悪い道となります。
それでも紛らわしい分岐や目立った危険箇所はなく、なるほど有間峠からの気軽なハイキングコースになるだけはあります。登り返しはほとんどありません。
尾根を下っていくと、鉄パイプで組まれた短い橋を渡ります。足元が岩場で切れ落ちていて、意外と怖い場所です。これを渡ると、すぐに送電線の鉄塔の下に出ます。
この場所は周囲が伐採されており、非常に見晴らしが良いです。東西方向とも遠くまで見通すことができます。はるか彼方に浅間山らしき影を見ることもできました。
ここで再び有間峠からの登山者とすれ違いました。目的地を問われたので「武甲山」と答えたら、驚かれました。このように他者に自分の目標をアピールすることで、モチベーションを上げることは効果的です。これで武甲山まで歩かなければ、自分に嘘をついてしまうことになります。意地の悪い優越感と自分にかけたプレッシャーを感じながら、鉄塔を後にします。
鉄塔からザレた階段を下り、さらに尾根を進んでいくと、未舗装の林道と接する箇所に出ます。この林道こそが、前回踊平の箇所で紹介した未開通の林道の片割れです。登山道から林道へショートカットする踏み跡があり、ここから有間峠までは二通りのルートが選べます。尾根道をゆく登山道を選べば、有間山のピークのひとつである仁田山(標高1211m)を踏むことができますが、先が長いので林道を選択しました。この場所は有間峠とほぼ同じ標高にあるので、仁田山を通れば登りの累積標高が70m追加されることになります。
林道はほとんど平坦で、歩きやすいです。ときおり進行方向右側、東京方面の展望が開けます。歩いていると一台の四駆車とすれ違いました。有間峠からこの林道へはゲートがあり一般車が入れないので、林業関係でしょうか。
11:05 有間峠(標高約1140m)
有間峠に着きました。日向沢の峰からの地図コースタイムは55分なので、10分の短縮でした。鉄塔で10分弱休憩を入れているので、まだいいペースです。
ここは有間ダムと浦山ダムを、大きく見れば飯能と秩父を連絡する有間林道の最高地点です。峠は切通で見晴らしも良く、なかなか峠らしい峠に思えました。
路肩に駐車スペースがあり、クルマが何台か停まっていました。ここまですれ違った3グループの登山者のものもあるのでしょう。ただ、駐車場があって峠を示す標柱もあるのですが、茶屋やトイレ、ベンチなどの休憩設備は見つけることができませんでした。本来ならここで少し腰を落ち着けようと思っていたのですが、とっとと先に進んでしまうことにします。
峠から舗装された林道を有間ダム方面に歩いて行くと、数十メートルで左手の山肌に道標が現れます。過去の記録をネットで読むと、どうやらわりと最近までこの標識は存在せず、法面のコンクリートにペンキで「有間山登山道」と記されているのが目印だったそうです。道標がないと、たしかに分かりにくい場所です。ペンキはかすれていて、意識していないと見過ごしてしまいそうです。
道標を頼りに登山道に入ります。最初は荒れた雰囲気ですが、尾根に乗ると落ち着きます。しかしここから細かいアップダウンが延々と続き、登山者の体力と精神力を削っていく道のりに入るのです。ここから先、目立った目的地としては、有間山最高峰であるタタラの頭、蕨山への分岐点となる橋小屋の頭、名栗と秩父を結ぶ古道が交わる鳥首峠と続くのですが、その間にいくつ小ピークがあったかを思い出すことができません。比高10m単位の小ピークを含めれば、それはおそらく10を軽く超えてくるでしょう。
11:36 タタラの頭(標高1213m)
登って下って、そのたびに地形図とにらめっこして現在地を特定して、水分を補給して、ということを何度か繰り返し、タタラの頭に到着しました。地形図ではこのピークが「有間山」とされていますが、山頂には小さな木の標識と三角点があるのみで、他にはなにもありません。周りに展望はもなにもなく、さらに小バエが多いのが癪に障りました。
それでも、地面に腰を落ち着け、有間峠ではとらなかった中休憩をここでとりました。木に囲まれているため強い日光から遮られ、虫さえ気にならなければ心地の良い場所でした。
ここで持参したスポーツドリンクとお茶を飲み干したので、1.5Lの水に粉のアクエリアスを投入しました。アクエリアスの粉は1L分なので少し薄めになりますが、このくらいのほうがちょうどいいように思えました。あまり甘いと逆に喉が渇いてしまいますから・・・。
きっかり10分ほど休んで、山頂を後にしました。
12:05 橋小屋の頭(標高1163m)
相変わらずの小刻みなアップダウンです。この登山道は山を巻くということを知らないのか、そんなことを考えているうちにつぎの顕著なピークである橋小屋の頭に着きました。ここで初めて、蕨山を経て名郷バス停あるいは有間ダムに下るという、現実的なエスケープルートとの合流になりました。休憩の頻度は増えてきたものの、まだ足にそれほどの疲れはありません。どちらかというと暑くて仕方がないので休憩しているといったところです。
このピークにはタタラの頭より立派な標識があり、しかも大きく「有間山(橋小屋の頭)」と記されています。ここを有間山の本峰としているあたりに地形図との齟齬が見られますが、それを気にする人もあまりいないのでしょう。
水分補給だけして、鳥首峠方面に向かいます。
山頂には鳥首峠を示す道標はありませんが、明瞭な踏み跡が尾根沿いに続いていますし、少し進んだところに小さな道標があるので迷うことはないでしょう。
橋小屋の頭を出ると、下り基調の道になります。
道の左手に金網が現れると、やがて大規模な伐採地の縁に出ます。ここからしばらくは展望の良い尾根を進むことになります。振り返ると、今まで歩いてきた有間山の尾根から絶景の鉄塔、都県境のオハヤシの頭までを一挙に眺めることができ、意外と距離を進んできたことが実感できます。そこから目線を右にずらして行くと、蕎麦粒山や天目山、酉谷山などの長沢背稜の山並みが重量感を持って対峙しています。さらに右に目をやると、鋸のような尾根が特徴的な両神山もはっきりと確認することができます。もう温度が上がりきっているので空気が霞んできてほとんど見えませんが、浅間山をここからも見ることができます。
鳥首峠の標高は約930mなので、橋小屋の頭からは約230mの下りです。
ですがここも小ピークが続き、すんなり下らせてはくれません。山頂に標識があるピークだけでも「ヤシンタイの頭」「しょうじくぼの頭」「滝入の頭」の3つ、そのほか名無しの「頭」がいくつかあります。眺めがよくて風も心地よいのですが、日光を遮る樹木がないために強烈な紫外線に肌を焼かれ、登り返しではたちまちオーバーヒート気味になりました。
滝入の頭を過ぎていくつかの小ピークをやり過ごすと、鳥首峠への道標が現れます。ここで展望区間は終わり、ふたたび樹林帯に囲まれた道に戻ります。この地点から鳥首峠までの残りの標高差はだいたい100mほどですが、これを一気に下ってしまいます。ここからの下りは、尾根を進んでいるはずなのですが、急な山肌を直滑降しているようでした。途中からはロープが出てきて、それを補助にしながら落ちるように下っていきます。下っていて、この急坂が前日の雨でぬかるんでいなかったことに安堵しました。実際は木の根が多く露出しているので、そこまでひどくぬかるむことはないのでしょうが、冬季に凍結していたらここは難所になるでしょう。
おおよそ二段に別れて急坂を下り切ると、すこしだけ登り返して鉄塔の下をくぐります。はじめの鉄塔ほどの眺めはありませんが、木の間から白岩の石灰石採石場を見下ろすことができます。ただそれよりも、送電線からいかにも高電圧が流れていそうな「ブーン」という不気味な音が聞こえたので、急いで鉄塔を後にしました。とにかく健康に悪そうな音でしたが、大丈夫なのでしょうか・・・?
13:06 鳥首峠(標高約930m)
鉄塔を越えるとすぐに鳥首峠です。有間峠からの地図コースタイムは2時間10分、実際はほぼ2時間なので、いよいよ足が遅くなってきたことがわかります。
先に述べたとおり、ここは名栗と秩父を結ぶ古道が交わる地点です。ひとくちに古道と言っても曖昧なのですが、明治時代後期の地形図には「小径」より上位の「聯路」としてこの峠道が記されています。峠の名栗側には「白岩」、秩父側には「冠岩」という集落があったのですが、いずれも現在は無住となっており、東京近郊の著名な廃村あるいは心霊スポットとして一部に知られています。ただ、集落は無くなったものの峠道自体は現役であり、名郷バス停あるいは浦山大日堂バス停に抜けるエスケープルートを提供してくれています。
橋小屋の頭では蕨山へのエスケープを即断で蹴りましたが、鳥首峠に到着したときにはわりと現実的に降りることを考えました。というのも、峠手前の急激な下りによって、足裏がチクリと痛みだしたのです。峠にはベンチなどはありませんが、座るのに適した岩がいくつかあります。そこに座り、とりあえず休憩してから改めて考えることにしました。
10分後、休憩の効果か、足裏の痛みは大分おさまりました。
鳥首峠を過ぎると、次はウノタワと呼ばれる窪地に名郷バス停へのエスケープルートがあります。その次は大持山のすぐ手前で、妻坂峠経由で名郷あるいは横瀬駅に降りられます。
さて、そろそろ判断の時です。
「せめて、大持山までは行こう・・・」
ここからのエスケープも蹴る判断をしました。しかし、武甲山まで歩き通すという気概はかなり下火になっていました。大持山までたどり着けば、横瀬駅までそのまま降りることができます。奥多摩から秩父まで繋いで歩くという目標は、このルートを歩くことによって達成できます。むしろ、昔の旅人や交易人の気分を味わうならば、武甲山を経由するという行程は余計なものになってしまいます。武甲山の北面から直に秩父市街に降りられればよかったのですが、あいにく現在そこは巨大な採石場と化しています。
だいぶ意気込みが後退した状態で、13:18に鳥首峠を出発しました。
鳥首峠から次の大持山までは、標高差360m程度の登りです。ダメージの蓄積した足にこれは堪えます。しかもやはり素直に360m登ればいいというものではなく、小ピークが連続します。
水準点のない場所は地理院地図頼りなので、標高は正確ではないですが
鳥首峠(930m)→ピーク(1059m)→鞍部(1045m)→ピーク(1138m)→ウノタワ(1070m)→横倉山(1197m)→鞍部(1175m)→大持山(1294m)
なので、大雑把に計算して468mほど登らなくてはなりません。高尾山を高尾山口駅から登る(約400m)より多くの標高を獲得しなければ大持山にすら着けないのです。しんどいです。
鳥首峠を出ると、早速急な登りが待っています。もう、川苔山の登りのようにスイスイと歩くことはできません。呼吸と足を出すタイミングを同期しながらゆっくり進みます。
100m以上一気に登って、1059mのなだらかなピークを越えると、伐採されて日の当たる鞍部の向こう側に次の1138mピークがそびえます。思わずため息を付いて、切り株に腰を下ろしました。
13時を過ぎ、気温もさらに上昇します。この日の秩父のアメダスによると、13時時点で26.9℃、日の最高気温は28.2℃でした。水の消費がさらに激しくなりました。
根性で1138mピークを越えると、登山道は岩場を眺めながら下ります。その先には楽園が待っていました。
13:58 ウノタワ(標高約1070m)
ここにどのような外的作用があったのかは不明ですが、不思議な場所です。おそらく池があったのだろう窪地は広い芝生となっていて、まるでそこだけ整備された公園の広場のようでした。踏み跡はウノタワの近くに差し掛かると急に不明瞭になってしまい、道を追うことは難しくなります。しかし、行く場所ははっきりしていました。その芝生にはぽつんと木が生えており、快適そうな木陰が手招きをしていたのです。
即座に木陰に入ると、荷物を投げ出し、靴を脱いで寝転がりました。やはり小バエは多いですが、もはやそのような事は気になりません。涼しい風が吹き抜けており、暑さに伸びた身体を冷却してくれました。それはまるで楽園のようでした。
半分意識を失っていると、遠くで人の声がします。どうやら自分のことを指差しているようです。彼らは大持山から降りてきた登山者のようでしたが、おかげでこれから進む道がわかりました。何のことはなく、彼らがいる芝生から外れたところには、立派な道標が立っていたのです。
もっと長いこと休んでいたように思えましたが、実際は20分ほどでした。全身を寝かせて休憩を取れたとこで足腰のダメージも幾分か和らぎ、ここから名郷へ降りるエスケープも蹴ることにしました。ここまでウノタワが快適な場所でなければ、もう(精神的な限界で)下山していたかもしれまん。それほどの場所でした。水さえ用意できれば、テントを張るのにも素晴らしい場所でしょう。
ウノタワを出ると、急な登りと平坦な道が交互に続きます。
横倉山のピークには小さな標識があるそうなのですが、下ばかり見ていたため全く気づかずに通過してしまいました。ウノタワで休んだはずの足もすぐに鈍ってしまい、急な登りでは数歩進んでは息をつくという状態になってきました。鳥首峠を過ぎる辺りからは、休憩しては回復した気になり、歩き出すとすぐに疲労に気づくということの繰り返しでした。この登りで足の限界を感じ、もう尾根を辿るのは大持山でやめにして、林道歩きこそ長いものの妻坂峠から横瀬駅に下ってしまおうと考えました。山頂の手前、大持山の肩と呼ばれる地点で妻坂峠からの道と合流するので、そこに荷物を置いて空身で大持山のピークまで往復し、下山しようと決めました。そう考えるとこの登りも全行程で最後の登りになるので、幾分か気分が楽になりました。もっとも気分が楽になっても疲労は取れません。ゆっくりと一歩づつ高度を稼いでいきました。
14:50 大持山の肩(標高約1240m)
なんとかここまでたどり着きました。鳥首峠からの地図のコースタイムは1時間半、ウノタワでの休憩を含めてもほぼこれと同じタイムで歩いたのは、若い自分の精一杯のプライドです。
妻坂峠へ続く道は名栗と秩父を分ける尾根の続きとなっており、これを果てなく辿って行くと武川岳、山伏峠、伊豆ヶ岳、正丸峠に繋がっていきます。体力が無尽蔵にあるのなら、伊豆ヶ岳からさらに尾根伝いに飯能駅まで歩き通してビールをかっ食らうこともできるのでしょうが、自分には無理です。そこまでを日帰りでこなすとなると、相当身体を鍛えたトレイルランナーでもないと不可能でしょう。トレイルランは今はする気もありませんし、できません。
ここは東側の見晴らしが特に優れています。気温が上がりきっているため東京都心はもやの中でしたが、順光状態だったので多摩地区の建物はよく見ることができました。かろうじてさいたま新都心のビル群も目視することができました。視界がクリアな時なら、スカイツリーも筑波山も綺麗に見えることでしょう。
ここでひとりの女性の登山者とすれ違いました。この日最後にすれ違った登山者です。奥多摩から尾根伝いに来たことを告げると、驚かれました。隠してはいてもやっぱり「してやったり」な気分になり、ここまで歩き通しただけでもそれなりに満足することができました。
どこへ向かうのかと聞かれたので、本当は武甲山まで行きたかったがもう降りる、と答えたところ・・・
「今までの道のりと比べたら、武甲山なんてもう少しですよ」
この言葉を聞いて、ほとんど萎れていた武甲山までの踏破意欲が再び湧き上がってきました。
ここから武甲山への道はこれまでの道に比べて眺めも良く、先の見通せない小ピークも少ないとのことでした。大持山まで登ってしまうと、子持山まで大きなアップダウンもなく、子持山からは鞍部であるシラジクボまでほぼまっすくの下り、シラジクボから武甲山は男らしい直登一辺倒、だそうです。
武甲山は過去2度登ったことのある山で、下山ルートとして考えていた浦山口駅に至る裏参道ルートも歩いたことがあります。一部狭い箇所はありますが、暗いと歩けないような迷いやすい箇所はなかったはずです。つまり武甲山まで着いてしまえば、あとはどうにかなる、ということなのです。
なんとも現金なもので、そのような会話をするうちに動かないと思っていた足が動くようになってきました。自分でもそれがおかしくて呆れるほどでした。結局身体の状態の善し悪しは、純粋な体力に依るところより、気持ちに依るところが大きかったということです。ここで他者との交流の重要さをまた一つ知ることになりました。もしここで会話をしていなかったら、妻坂峠に降りることを決断していたでしょう。
ここでこのように書いているとおり、とうとうこのエスケープポイントも蹴ってしまいました。シラジクボから武甲山のピークを踏まずに浦山口駅ないしは横瀬駅に降りるエスケープルートもあるにはあるのですが、そこまで行って登らず諦めるというのは、よほどのアクシデントが無い限り自身の性格上ありえないことでした。つまりここが実質的に最後のエスケープポイントであったのです。
ここで結論を述べると、このあと私は武甲山の山頂を踏むことができました。そして自力で下山することもできました。
もしここからエスケープしていた場合、多少は身体の負担が和らいでいたものの、多かれ少なかれ後悔したはずです。まだ体力が残っていたのに諦め、自分で決めた達成可能な目標から逃げてしまった自分に失望していたことでしょう。
おそらくここを見られてはいないでしょうが、あの時大持山ですれ違った女性の方に、感謝の意を示したいと思います。ありがとうございました。
続きます。
都県境到達時点での残りのエネルギー源は、水が2.5L、食料はチョコレート一箱と塩飴が10個、ウィダーがひとつでした。
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10:30 有間山分岐(オハヤシの頭)
ここより埼玉県に入ります。同時に、山域としての「奥多摩」からも外れ、「奥武蔵/秩父」のエリアに入ります。ふたつのエリアを結ぶという目的だけを見れば、今回の山行はこの時点で半分達成されました。あとは有間峠から一目散に名栗湖にでも降りれば、この目的は完全に達成されます。しかし、今回の山行の本当の目的は「トレーニング」です。足はまだ十分に動きます。幸か不幸か炭水化物をほとんど取っていないおかげか身体も軽いような気がします。ついでに言えば、名栗に降りると飯能までのバスが中々にいい値段をとられるのを知っていたので、西武線の駅まで行きたいというセコい欲もありました。またどうでもいいことを長々と書いてしまいました。行けるだけ行きましょう。
まずは、有間峠に向けて下ります。オハヤシの頭からはおよそ200mの標高差があります。
これまでの防火帯の広々とした道からは一転、狭くて見通しの悪い道となります。
それでも紛らわしい分岐や目立った危険箇所はなく、なるほど有間峠からの気軽なハイキングコースになるだけはあります。登り返しはほとんどありません。
尾根を下っていくと、鉄パイプで組まれた短い橋を渡ります。足元が岩場で切れ落ちていて、意外と怖い場所です。これを渡ると、すぐに送電線の鉄塔の下に出ます。
この場所は周囲が伐採されており、非常に見晴らしが良いです。東西方向とも遠くまで見通すことができます。はるか彼方に浅間山らしき影を見ることもできました。
ここで再び有間峠からの登山者とすれ違いました。目的地を問われたので「武甲山」と答えたら、驚かれました。このように他者に自分の目標をアピールすることで、モチベーションを上げることは効果的です。これで武甲山まで歩かなければ、自分に嘘をついてしまうことになります。意地の悪い優越感と自分にかけたプレッシャーを感じながら、鉄塔を後にします。
鉄塔からザレた階段を下り、さらに尾根を進んでいくと、未舗装の林道と接する箇所に出ます。この林道こそが、前回踊平の箇所で紹介した未開通の林道の片割れです。登山道から林道へショートカットする踏み跡があり、ここから有間峠までは二通りのルートが選べます。尾根道をゆく登山道を選べば、有間山のピークのひとつである仁田山(標高1211m)を踏むことができますが、先が長いので林道を選択しました。この場所は有間峠とほぼ同じ標高にあるので、仁田山を通れば登りの累積標高が70m追加されることになります。
林道はほとんど平坦で、歩きやすいです。ときおり進行方向右側、東京方面の展望が開けます。歩いていると一台の四駆車とすれ違いました。有間峠からこの林道へはゲートがあり一般車が入れないので、林業関係でしょうか。
11:05 有間峠(標高約1140m)
有間峠に着きました。日向沢の峰からの地図コースタイムは55分なので、10分の短縮でした。鉄塔で10分弱休憩を入れているので、まだいいペースです。
ここは有間ダムと浦山ダムを、大きく見れば飯能と秩父を連絡する有間林道の最高地点です。峠は切通で見晴らしも良く、なかなか峠らしい峠に思えました。
路肩に駐車スペースがあり、クルマが何台か停まっていました。ここまですれ違った3グループの登山者のものもあるのでしょう。ただ、駐車場があって峠を示す標柱もあるのですが、茶屋やトイレ、ベンチなどの休憩設備は見つけることができませんでした。本来ならここで少し腰を落ち着けようと思っていたのですが、とっとと先に進んでしまうことにします。
峠から舗装された林道を有間ダム方面に歩いて行くと、数十メートルで左手の山肌に道標が現れます。過去の記録をネットで読むと、どうやらわりと最近までこの標識は存在せず、法面のコンクリートにペンキで「有間山登山道」と記されているのが目印だったそうです。道標がないと、たしかに分かりにくい場所です。ペンキはかすれていて、意識していないと見過ごしてしまいそうです。
道標を頼りに登山道に入ります。最初は荒れた雰囲気ですが、尾根に乗ると落ち着きます。しかしここから細かいアップダウンが延々と続き、登山者の体力と精神力を削っていく道のりに入るのです。ここから先、目立った目的地としては、有間山最高峰であるタタラの頭、蕨山への分岐点となる橋小屋の頭、名栗と秩父を結ぶ古道が交わる鳥首峠と続くのですが、その間にいくつ小ピークがあったかを思い出すことができません。比高10m単位の小ピークを含めれば、それはおそらく10を軽く超えてくるでしょう。
11:36 タタラの頭(標高1213m)
登って下って、そのたびに地形図とにらめっこして現在地を特定して、水分を補給して、ということを何度か繰り返し、タタラの頭に到着しました。地形図ではこのピークが「有間山」とされていますが、山頂には小さな木の標識と三角点があるのみで、他にはなにもありません。周りに展望はもなにもなく、さらに小バエが多いのが癪に障りました。
それでも、地面に腰を落ち着け、有間峠ではとらなかった中休憩をここでとりました。木に囲まれているため強い日光から遮られ、虫さえ気にならなければ心地の良い場所でした。
ここで持参したスポーツドリンクとお茶を飲み干したので、1.5Lの水に粉のアクエリアスを投入しました。アクエリアスの粉は1L分なので少し薄めになりますが、このくらいのほうがちょうどいいように思えました。あまり甘いと逆に喉が渇いてしまいますから・・・。
きっかり10分ほど休んで、山頂を後にしました。
12:05 橋小屋の頭(標高1163m)
相変わらずの小刻みなアップダウンです。この登山道は山を巻くということを知らないのか、そんなことを考えているうちにつぎの顕著なピークである橋小屋の頭に着きました。ここで初めて、蕨山を経て名郷バス停あるいは有間ダムに下るという、現実的なエスケープルートとの合流になりました。休憩の頻度は増えてきたものの、まだ足にそれほどの疲れはありません。どちらかというと暑くて仕方がないので休憩しているといったところです。
このピークにはタタラの頭より立派な標識があり、しかも大きく「有間山(橋小屋の頭)」と記されています。ここを有間山の本峰としているあたりに地形図との齟齬が見られますが、それを気にする人もあまりいないのでしょう。
水分補給だけして、鳥首峠方面に向かいます。
山頂には鳥首峠を示す道標はありませんが、明瞭な踏み跡が尾根沿いに続いていますし、少し進んだところに小さな道標があるので迷うことはないでしょう。
橋小屋の頭を出ると、下り基調の道になります。
道の左手に金網が現れると、やがて大規模な伐採地の縁に出ます。ここからしばらくは展望の良い尾根を進むことになります。振り返ると、今まで歩いてきた有間山の尾根から絶景の鉄塔、都県境のオハヤシの頭までを一挙に眺めることができ、意外と距離を進んできたことが実感できます。そこから目線を右にずらして行くと、蕎麦粒山や天目山、酉谷山などの長沢背稜の山並みが重量感を持って対峙しています。さらに右に目をやると、鋸のような尾根が特徴的な両神山もはっきりと確認することができます。もう温度が上がりきっているので空気が霞んできてほとんど見えませんが、浅間山をここからも見ることができます。
鳥首峠の標高は約930mなので、橋小屋の頭からは約230mの下りです。
ですがここも小ピークが続き、すんなり下らせてはくれません。山頂に標識があるピークだけでも「ヤシンタイの頭」「しょうじくぼの頭」「滝入の頭」の3つ、そのほか名無しの「頭」がいくつかあります。眺めがよくて風も心地よいのですが、日光を遮る樹木がないために強烈な紫外線に肌を焼かれ、登り返しではたちまちオーバーヒート気味になりました。
滝入の頭を過ぎていくつかの小ピークをやり過ごすと、鳥首峠への道標が現れます。ここで展望区間は終わり、ふたたび樹林帯に囲まれた道に戻ります。この地点から鳥首峠までの残りの標高差はだいたい100mほどですが、これを一気に下ってしまいます。ここからの下りは、尾根を進んでいるはずなのですが、急な山肌を直滑降しているようでした。途中からはロープが出てきて、それを補助にしながら落ちるように下っていきます。下っていて、この急坂が前日の雨でぬかるんでいなかったことに安堵しました。実際は木の根が多く露出しているので、そこまでひどくぬかるむことはないのでしょうが、冬季に凍結していたらここは難所になるでしょう。
おおよそ二段に別れて急坂を下り切ると、すこしだけ登り返して鉄塔の下をくぐります。はじめの鉄塔ほどの眺めはありませんが、木の間から白岩の石灰石採石場を見下ろすことができます。ただそれよりも、送電線からいかにも高電圧が流れていそうな「ブーン」という不気味な音が聞こえたので、急いで鉄塔を後にしました。とにかく健康に悪そうな音でしたが、大丈夫なのでしょうか・・・?
13:06 鳥首峠(標高約930m)
鉄塔を越えるとすぐに鳥首峠です。有間峠からの地図コースタイムは2時間10分、実際はほぼ2時間なので、いよいよ足が遅くなってきたことがわかります。
先に述べたとおり、ここは名栗と秩父を結ぶ古道が交わる地点です。ひとくちに古道と言っても曖昧なのですが、明治時代後期の地形図には「小径」より上位の「聯路」としてこの峠道が記されています。峠の名栗側には「白岩」、秩父側には「冠岩」という集落があったのですが、いずれも現在は無住となっており、東京近郊の著名な廃村あるいは心霊スポットとして一部に知られています。ただ、集落は無くなったものの峠道自体は現役であり、名郷バス停あるいは浦山大日堂バス停に抜けるエスケープルートを提供してくれています。
橋小屋の頭では蕨山へのエスケープを即断で蹴りましたが、鳥首峠に到着したときにはわりと現実的に降りることを考えました。というのも、峠手前の急激な下りによって、足裏がチクリと痛みだしたのです。峠にはベンチなどはありませんが、座るのに適した岩がいくつかあります。そこに座り、とりあえず休憩してから改めて考えることにしました。
10分後、休憩の効果か、足裏の痛みは大分おさまりました。
鳥首峠を過ぎると、次はウノタワと呼ばれる窪地に名郷バス停へのエスケープルートがあります。その次は大持山のすぐ手前で、妻坂峠経由で名郷あるいは横瀬駅に降りられます。
さて、そろそろ判断の時です。
「せめて、大持山までは行こう・・・」
ここからのエスケープも蹴る判断をしました。しかし、武甲山まで歩き通すという気概はかなり下火になっていました。大持山までたどり着けば、横瀬駅までそのまま降りることができます。奥多摩から秩父まで繋いで歩くという目標は、このルートを歩くことによって達成できます。むしろ、昔の旅人や交易人の気分を味わうならば、武甲山を経由するという行程は余計なものになってしまいます。武甲山の北面から直に秩父市街に降りられればよかったのですが、あいにく現在そこは巨大な採石場と化しています。
だいぶ意気込みが後退した状態で、13:18に鳥首峠を出発しました。
鳥首峠から次の大持山までは、標高差360m程度の登りです。ダメージの蓄積した足にこれは堪えます。しかもやはり素直に360m登ればいいというものではなく、小ピークが連続します。
水準点のない場所は地理院地図頼りなので、標高は正確ではないですが
鳥首峠(930m)→ピーク(1059m)→鞍部(1045m)→ピーク(1138m)→ウノタワ(1070m)→横倉山(1197m)→鞍部(1175m)→大持山(1294m)
なので、大雑把に計算して468mほど登らなくてはなりません。高尾山を高尾山口駅から登る(約400m)より多くの標高を獲得しなければ大持山にすら着けないのです。しんどいです。
鳥首峠を出ると、早速急な登りが待っています。もう、川苔山の登りのようにスイスイと歩くことはできません。呼吸と足を出すタイミングを同期しながらゆっくり進みます。
100m以上一気に登って、1059mのなだらかなピークを越えると、伐採されて日の当たる鞍部の向こう側に次の1138mピークがそびえます。思わずため息を付いて、切り株に腰を下ろしました。
13時を過ぎ、気温もさらに上昇します。この日の秩父のアメダスによると、13時時点で26.9℃、日の最高気温は28.2℃でした。水の消費がさらに激しくなりました。
根性で1138mピークを越えると、登山道は岩場を眺めながら下ります。その先には楽園が待っていました。
13:58 ウノタワ(標高約1070m)
ここにどのような外的作用があったのかは不明ですが、不思議な場所です。おそらく池があったのだろう窪地は広い芝生となっていて、まるでそこだけ整備された公園の広場のようでした。踏み跡はウノタワの近くに差し掛かると急に不明瞭になってしまい、道を追うことは難しくなります。しかし、行く場所ははっきりしていました。その芝生にはぽつんと木が生えており、快適そうな木陰が手招きをしていたのです。
即座に木陰に入ると、荷物を投げ出し、靴を脱いで寝転がりました。やはり小バエは多いですが、もはやそのような事は気になりません。涼しい風が吹き抜けており、暑さに伸びた身体を冷却してくれました。それはまるで楽園のようでした。
半分意識を失っていると、遠くで人の声がします。どうやら自分のことを指差しているようです。彼らは大持山から降りてきた登山者のようでしたが、おかげでこれから進む道がわかりました。何のことはなく、彼らがいる芝生から外れたところには、立派な道標が立っていたのです。
もっと長いこと休んでいたように思えましたが、実際は20分ほどでした。全身を寝かせて休憩を取れたとこで足腰のダメージも幾分か和らぎ、ここから名郷へ降りるエスケープも蹴ることにしました。ここまでウノタワが快適な場所でなければ、もう(精神的な限界で)下山していたかもしれまん。それほどの場所でした。水さえ用意できれば、テントを張るのにも素晴らしい場所でしょう。
ウノタワを出ると、急な登りと平坦な道が交互に続きます。
横倉山のピークには小さな標識があるそうなのですが、下ばかり見ていたため全く気づかずに通過してしまいました。ウノタワで休んだはずの足もすぐに鈍ってしまい、急な登りでは数歩進んでは息をつくという状態になってきました。鳥首峠を過ぎる辺りからは、休憩しては回復した気になり、歩き出すとすぐに疲労に気づくということの繰り返しでした。この登りで足の限界を感じ、もう尾根を辿るのは大持山でやめにして、林道歩きこそ長いものの妻坂峠から横瀬駅に下ってしまおうと考えました。山頂の手前、大持山の肩と呼ばれる地点で妻坂峠からの道と合流するので、そこに荷物を置いて空身で大持山のピークまで往復し、下山しようと決めました。そう考えるとこの登りも全行程で最後の登りになるので、幾分か気分が楽になりました。もっとも気分が楽になっても疲労は取れません。ゆっくりと一歩づつ高度を稼いでいきました。
14:50 大持山の肩(標高約1240m)
なんとかここまでたどり着きました。鳥首峠からの地図のコースタイムは1時間半、ウノタワでの休憩を含めてもほぼこれと同じタイムで歩いたのは、若い自分の精一杯のプライドです。
妻坂峠へ続く道は名栗と秩父を分ける尾根の続きとなっており、これを果てなく辿って行くと武川岳、山伏峠、伊豆ヶ岳、正丸峠に繋がっていきます。体力が無尽蔵にあるのなら、伊豆ヶ岳からさらに尾根伝いに飯能駅まで歩き通してビールをかっ食らうこともできるのでしょうが、自分には無理です。そこまでを日帰りでこなすとなると、相当身体を鍛えたトレイルランナーでもないと不可能でしょう。トレイルランは今はする気もありませんし、できません。
ここは東側の見晴らしが特に優れています。気温が上がりきっているため東京都心はもやの中でしたが、順光状態だったので多摩地区の建物はよく見ることができました。かろうじてさいたま新都心のビル群も目視することができました。視界がクリアな時なら、スカイツリーも筑波山も綺麗に見えることでしょう。
ここでひとりの女性の登山者とすれ違いました。この日最後にすれ違った登山者です。奥多摩から尾根伝いに来たことを告げると、驚かれました。隠してはいてもやっぱり「してやったり」な気分になり、ここまで歩き通しただけでもそれなりに満足することができました。
どこへ向かうのかと聞かれたので、本当は武甲山まで行きたかったがもう降りる、と答えたところ・・・
「今までの道のりと比べたら、武甲山なんてもう少しですよ」
この言葉を聞いて、ほとんど萎れていた武甲山までの踏破意欲が再び湧き上がってきました。
ここから武甲山への道はこれまでの道に比べて眺めも良く、先の見通せない小ピークも少ないとのことでした。大持山まで登ってしまうと、子持山まで大きなアップダウンもなく、子持山からは鞍部であるシラジクボまでほぼまっすくの下り、シラジクボから武甲山は男らしい直登一辺倒、だそうです。
武甲山は過去2度登ったことのある山で、下山ルートとして考えていた浦山口駅に至る裏参道ルートも歩いたことがあります。一部狭い箇所はありますが、暗いと歩けないような迷いやすい箇所はなかったはずです。つまり武甲山まで着いてしまえば、あとはどうにかなる、ということなのです。
なんとも現金なもので、そのような会話をするうちに動かないと思っていた足が動くようになってきました。自分でもそれがおかしくて呆れるほどでした。結局身体の状態の善し悪しは、純粋な体力に依るところより、気持ちに依るところが大きかったということです。ここで他者との交流の重要さをまた一つ知ることになりました。もしここで会話をしていなかったら、妻坂峠に降りることを決断していたでしょう。
ここでこのように書いているとおり、とうとうこのエスケープポイントも蹴ってしまいました。シラジクボから武甲山のピークを踏まずに浦山口駅ないしは横瀬駅に降りるエスケープルートもあるにはあるのですが、そこまで行って登らず諦めるというのは、よほどのアクシデントが無い限り自身の性格上ありえないことでした。つまりここが実質的に最後のエスケープポイントであったのです。
ここで結論を述べると、このあと私は武甲山の山頂を踏むことができました。そして自力で下山することもできました。
もしここからエスケープしていた場合、多少は身体の負担が和らいでいたものの、多かれ少なかれ後悔したはずです。まだ体力が残っていたのに諦め、自分で決めた達成可能な目標から逃げてしまった自分に失望していたことでしょう。
おそらくここを見られてはいないでしょうが、あの時大持山ですれ違った女性の方に、感謝の意を示したいと思います。ありがとうございました。
続きます。
ここからが本編です。この記事は「前」です。
歩いた区間は鳩ノ巣駅から浦山口駅ですが、あまりに長いので今回を含めて3回に分けたいと思います。 「前」では、鳩ノ巣駅から都県境となるの日向沢の峰の先までを取り上げます。
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2016年5月18日
4:25 国分寺駅
最寄り駅からだと出発が遅くなるので、この駅まで自転車で来ました。
ここから中央線に始発に乗って、西を目指します。
ガラガラの電車は鳩ノ巣駅に到着しました。
ここのホーロー看板の駅名標は、お気に入りです。
鳩ノ巣駅の駅舎です。早朝や夜間は無人駅になるようです。
駅前の休憩舎には、奥多摩町のWi-Fiが飛んでいました。ハイテクですね。
綺麗なトイレがあったので、準備をして出発します。
今回のルート、恐ろしいことにエスケープしない限り武甲山までトイレがありません。
山歩きではそれが普通なのですが、最近は山小屋や茶屋が随所にあるようなヌルい山ばかり登っていたので・・・。
6:01 鳩ノ巣駅 出発
鳩ノ巣駅の標高は307m、最初の目的地である川苔山は1363mなので、ここから1056m上げていきます。この登りだけでお腹いっぱいになれそうです。
まずは車道歩きです。ものの数百メートルですが、のっけから急傾斜なのでウォーミングアップのつもりでゆっくり歩き出します。集落内ではいくつか分岐がありますが、道なりにまっすぐ登っていけば道標が現れます。
自分の場合は、だいたい登山を始めて30分程度でエンジンが始動して楽になるので、それまでは嫌な汗をかきながら我慢の時間です。
民家の脇から登山道に入り、植林の中を登っていきます。
そこそこ急な登りですが、歩きにくいほどではありません。
雰囲気は鴨沢バス停から雲取山に登る、小袖乗越までの区間そっくりです。
しかし、ここで気づきました。
「あ、メシ買うの忘れた」
朝食は、家に出る前に食べたおにぎり一つ。
水分とチョコレートやウィダーなどの行動食は豊富に持っていたのですが、肝心の炭水化物をなにひとつ持っていませんでした。
・・・この時点で食料が買えそうな最寄りの店は、おそらく古里のセブンイレブンです。
そこまで戻っていては、今日一日のプランはたちまち破綻するでしょう。
まあいっか、と、先に進みました。
(この行為は遭難に繋がる危険なものです!)
6:35 大根の山の神(標高約660m)
ここはいくつかの登山道や林道が分岐するポイントです。これから向かう川苔山方面の他に、本仁田山(1225m)や大ダワに繋がる登山道、鳩ノ巣駅方面に戻る林道のほか、著名な廃村である峰集落跡に続く道が分岐しています。
ここは地名の示すとおり尾根に祠が立ち、朝ということもあり荘厳な雰囲気でした。
数年前にここを通った時は本仁田山からの下山時で、しかも雷鳴とどろく空模様だったため、脇目もふらず通過していました。結局その時は雷雨になる3分前に鳩ノ巣駅に到着し、難を逃れています。
ザックを下ろしてチョコレートとアクエリアスを補給し、6:45に出発です。
歩き出すとすぐに、この先歩く場所を見上げることができました。
一番高いコブが、おそらく川苔山の肩だと思われます。遠くて高いです。
それにしてもスギ・ヒノキ植林だらけ。つまらない道が予想されました。
ですが、そもそもこの日はトレーニングのつもりだったので、展望の類はほとんど期待していませんでした。
大根の山の神からわずかに林道を歩き、すぐに右手に登山道が分岐するので入ります。
すると、歩きやすい快適な道がしばらく続きます。
たいした傾斜もなく、木の根や石が張りだしていることもなく、とにかく歩きやすい。
前日に雨が降っていたのでぬかるみを警戒していたのですが、それもありませんでした。
先の行程が長いので、急げるうちに急ぎます。どうせ後半になると、地図のコースタイム以下の速さになってしまうでしょうから・・・。
しばらく快適なトラバースが続く登山道ですが、空積みの古い石垣のある谷を越えると、やや傾斜が急になります。歩幅と合わない階段も登場します。ただ、標高は稼げます。ガシガシと登っていきます。(とはいっても、トレイルランニングをされる方や登山のベテランの方からは、失笑されるほどのスローペースですが)
本仁田山・大ダワ方面からの巻道(この道は狭くてハイカーから恐れられているそうです)と合流して、道が少々不明瞭な沢筋を少しだけ進み、標高1050mあたりまで登るとベンチがあります。親切ですね。もちろん休みます。塩飴をふたつ舐めました。この日は塩飴に何度助けられたかわかりません。
8:13 舟井戸(標高約1210m)
舟井戸のコルとも呼ばれる鞍部に着きました。このあたりは、鞍部のことを「コル」や「タワ」と呼んでいる地名が多いです。
ここまで来れば川苔山はもう少しです。昭文社の地図では鳩ノ巣駅からここまで約3時間のコースタイムなので、自分の中ではなかなかのペースです。約50分短縮できました。
ミツバツツジでしょうかね。登山道のあちこちで咲いていて、励みになりました。
舟井戸にもベンチがあったので休憩。川苔山最後の登りに備えます。
舟井戸を出て、すぐに尾根道を右に分けてトラバース道に入ります。一箇所谷を越える箇所がありますが、意外に高度感があって、岩も露出しており怖い場所でした。谷を越えると広葉樹の新緑が広がって、雰囲気の良い道になります。そしてすぐに川苔山の肩に到着です。
8:31 川苔山の肩(標高約1315m)
ここは十字路になっており、川乗橋バス停から百尋の滝を経る道、赤杭尾根や日向沢の峰に続く道、川苔山山頂に至る道の合流点になります。この先のルートは、川苔山の山頂までここから往復して、次の目的地である日向沢の峰に続く尾根道を進むことになります。
鳩ノ巣駅からここまで6.6km、道がそれほど険しくなかったので、距離ほどには長く感じませんでした。
ちなみにこの箇所には茶屋だか避難小屋だかの建物があったそうですが、いまは木の残骸があるだけです。
ここから川苔山最後の登りです。やや急ですが、距離はわずかです。
8:36 川苔山山頂(標高1363m)到着
今回のルートにおける最初の目的地、川苔山に到着しました。鳩ノ巣駅からここまで6.8km(道標による)、2時間35分でした。
まだ時間が早いためか、誰もいません。ハイシーズンには沢山のハイカーで溢れる山ですが、今回は独り占めです。
この山は表記にブレがあり、地理院地図では「川乗山」とされています。一方で昭文社の地図では「川苔山(川乗山)」となっています。このブログでは「苔」の表記を使っています。そちらのほうが響きがいいような気がするので・・・。
二等三角点「火打石」1363.2m
近くに「火打石谷」という沢があるので、そこからの命名でしょうか。
この日は富士山が見えました。
木々が落葉するともう少し見えるのでしょうが、葉が茂る時期だと見える場所はかなり限られますね。具体的には、山頂の標識に向かい合ったベンチの裏側だけなので、ここで煮炊きをする人がいたらそれだけでもう見えないのではないかと思われます。
むしろこの山は、富士山よりも西側に開けた展望を楽しむほうがいいでしょう。
鷹ノ巣山から雲取山に続く石尾根や、中腹を石灰石採掘によって大きく削られた天祖山、奥多摩で最も山深いとされる長沢背稜、日原川を取り囲む山をおおむね見晴らすことができます。
望遠レンズで覗いてみると、雲取山荘の赤い屋根もはっきり確認できました。
雲取山はやっぱりいい山です。
景色を楽しみながら、チョコをかじります。
普段ならこの辺でお湯を沸かしてラーメンでも食べているところですが、荷物の重量削減のためガスバーナーすら持ってきていません。
正直空腹でしたが、行けるところまでは行こうと思いました。
ここで滝でも見ながら下山すれば、それだけで日帰りハイキングの立派な行程になります。
しかし、今日は違います。
ここが、武甲山に続く長い長い縦走路のスタート地点になります。
結局誰も登ってこないまま、9:05に山頂を発ちました。
川苔山の肩を過ぎ、日向沢の峰に進路を取ると、すぐに北側の眺望が開ける箇所に出ます。
ここから、武甲山に向けてのはるかな稜線が見渡せます。正直見ないほうが気が楽です。
ただ、そのどんぐりの背くらべのようなパッとしない稜線のはるか向こう側に、日光連山や関東北部の山々が屏風のように青く浮かんでいたのを見られたので、すこし気分が晴れました。
シロヤシオの花も綺麗でした。ミツバツツジと合わせて、紅白に登山道を彩っていました。良い時期に来られたと思います。
9:38 踊平(標高約1170m)
川苔山から踊平までは、いくつかの登山道を分岐させながら比較的ゆるやかに下っていきます。
踊平は鞍部になっており、ここから獅子口小屋跡を経て川井駅へ向かう道(登山当時通行止め)と、川乗橋バス停から延々と伸びてきた林道に接続しています。
この林道はいま歩いている稜線をトンネルで掘り抜いており、あと少しで埼玉県というところで途切れています。
逆に埼玉側も、この先に通過する有間峠から林道が延びており、東京都に少し届かないところで行き止まりとなっています。両者の終点は都県境の尾根を挟んで、直線距離で500mも離れていません。
もしこの林道が繋がれば、奥多摩から秩父へ直接クルマで抜けられる唯一のルートとなり、林業だけでなく新たな輸送や観光ルートとなる可能性があります。もっとも開通したとしても、既存の区間をかなり整備しない限り、一般車の通行は制限されたままでしょうが・・・。
踊平は鞍部ですから、日向沢の峰に向けて一気に標高差185mを登ります。
ちなみに日向沢の峰の読みは「ひなたさわのうら」です。「峰」を「うら」と読ませます。
踊平を出ると、尾根道と巻き道に踏み跡が分かれます。一瞬どちらを進むか迷い、急登を嫌って巻き道のほうを進みましたが、やがて合流しました。合流したところに道標があるので一安心です。
その道標から、ため息の出る登りが始まります。標高差100m以上をここで一気に詰めてしまうのです。道は尾根をジグザクに登っていきますが、防火帯で木が伐採されており、日光が背中に直接当たります。なかなかトレーニングらしくなってきました。
岩の横を回りこみ、登りも一段落かと思いきや、まだまだ続きます。水をどんどんと消費します。今回、ルート上にそれらしい水場は全くありません。そのため、ペットボトルのお茶500ml+アクエリアス500ml+水2.5Lの計3.5Lもの水を背負っています。さらに水に溶かすアクエリアスの粉も持ってきています。水分不足もそうですが、塩分不足も同様に心配すべきことでした。
ひいひい言いながら、登りきりました。
今までのスパルタンな登りが嘘のように、穏やかな道となります。まさしく飴と鞭です。
あとは、日向沢の峰に向けてゆるゆると上がっていきます。
10:01 日向沢の峰(標高1356m)到着
川苔山から2.9km(道標)、56分で到着です。地図のコースタイムだと1時間20分なので、なんとかいいペースを維持できています。というより、愚直にコースタイム通りに歩いて、さらに適宜休憩を入れていたら、日暮れまでに武甲山にたどり着くことができません。休憩は欠かすことができないので、歩く速度を早めるしかありません。山のベテランはとにかく休まずにゆっくり歩き続けるそうですが、自分はペーペーですので・・・。
日向沢の峰は狭い山頂ですが、眺めは川苔山より良いかもしれません。とくに富士山の眺めは、確実にこちらの方が分があります。今年は雪が少ないとのことですが、それでもまだ十分に残雪があるように見えます。富士山の左肩のコブ(宝永山:標高2693m)に雪がないことから、だいたい標高2700~3000mあたりが雪線のようです。
山頂に設置してある気温計は12℃を指していました。たしかに日差しは強く、登っている最中は暑くなりますが、風はやや寒いくらいでした。午前中はやはりいいですね。
ここで、鳩ノ巣駅を出てからはじめて、人とすれ違いました。
この先の有間峠にクルマを止めて、ここまで登ってきたそうです。
なるほど、有間峠は林道ですがしっかり舗装もされていて、しかも標高も高いため、散策するにはちょうどいいですね。有間峠からは見えない富士山も、ここまで来れば綺麗に見えます。
この後も、有間峠から来られたハイカーと4人すれ違いました。皆さん、やはり峠にクルマを置かれていました。
ちなみに、この日全行程を通してすれ違った人数は、9人です。そのうち5人が日向沢の峰と有間峠の間でした。つまり、その先の区間では4人。いくら平日の昼過ぎとはいえ、そこまで人気のないエリアなのかと、自らの認識を改めることになりました。
10:20に山頂を出発。これにて富士山とはお別れになります。
下り始めてすぐに都県境の尾根に合流し、棒ノ折山方面に進む道との分岐です。道標によると6kmほどなので、下り基調ということを考えると2時間半ほどで行けるでしょうか。前回棒ノ折山に登った時は曇天でご自慢の展望が全くなかったので、一瞬心が動きましたが、ここは初志貫徹で行きます。武甲山のピークを踏むまでは帰れない・・・!
10:27 有間山分岐(オハヤシの頭)
棒ノ折山の分岐から、軽く下って登り返すとすぐに有間山方面への分岐です。道標があるので、それを見落とさなければ間違えることはないでしょう。有間山と書かれた標識は、都が設置した道標とは別にあります。管轄の違いというものでしょうか。
都が設置したほうの道標には「オハヤシの頭」と記されていました(落書き?)。有間山はいくつかのピークの総称であり、それぞれのピークは「頭」と呼ばれていることから、あるいはここもすでに有間山の一部に入っているのかもしれません。
ちなみに今までの尾根をまっすぐ進んでいくと、蕎麦粒山や天目山、酉谷山などの長沢背稜を経て雲取山まで歩けます。これもなかなか魅力的ですが、我慢です。
ようやく東京都を抜け出しました。ですが、武甲山への道のりはまだ始まったばかり。
果たしてたどり着けるのか、その前に日が暮れるのか、ギブアップするのか・・・。
続きます。
歩いた区間は鳩ノ巣駅から浦山口駅ですが、あまりに長いので今回を含めて3回に分けたいと思います。 「前」では、鳩ノ巣駅から都県境となるの日向沢の峰の先までを取り上げます。
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2016年5月18日
4:25 国分寺駅
最寄り駅からだと出発が遅くなるので、この駅まで自転車で来ました。
ここから中央線に始発に乗って、西を目指します。
ガラガラの電車は鳩ノ巣駅に到着しました。
ここのホーロー看板の駅名標は、お気に入りです。
鳩ノ巣駅の駅舎です。早朝や夜間は無人駅になるようです。
駅前の休憩舎には、奥多摩町のWi-Fiが飛んでいました。ハイテクですね。
綺麗なトイレがあったので、準備をして出発します。
今回のルート、恐ろしいことにエスケープしない限り武甲山までトイレがありません。
山歩きではそれが普通なのですが、最近は山小屋や茶屋が随所にあるようなヌルい山ばかり登っていたので・・・。
6:01 鳩ノ巣駅 出発
鳩ノ巣駅の標高は307m、最初の目的地である川苔山は1363mなので、ここから1056m上げていきます。この登りだけでお腹いっぱいになれそうです。
まずは車道歩きです。ものの数百メートルですが、のっけから急傾斜なのでウォーミングアップのつもりでゆっくり歩き出します。集落内ではいくつか分岐がありますが、道なりにまっすぐ登っていけば道標が現れます。
自分の場合は、だいたい登山を始めて30分程度でエンジンが始動して楽になるので、それまでは嫌な汗をかきながら我慢の時間です。
民家の脇から登山道に入り、植林の中を登っていきます。
そこそこ急な登りですが、歩きにくいほどではありません。
雰囲気は鴨沢バス停から雲取山に登る、小袖乗越までの区間そっくりです。
しかし、ここで気づきました。
「あ、メシ買うの忘れた」
朝食は、家に出る前に食べたおにぎり一つ。
水分とチョコレートやウィダーなどの行動食は豊富に持っていたのですが、肝心の炭水化物をなにひとつ持っていませんでした。
・・・この時点で食料が買えそうな最寄りの店は、おそらく古里のセブンイレブンです。
そこまで戻っていては、今日一日のプランはたちまち破綻するでしょう。
まあいっか、と、先に進みました。
(この行為は遭難に繋がる危険なものです!)
6:35 大根の山の神(標高約660m)
ここはいくつかの登山道や林道が分岐するポイントです。これから向かう川苔山方面の他に、本仁田山(1225m)や大ダワに繋がる登山道、鳩ノ巣駅方面に戻る林道のほか、著名な廃村である峰集落跡に続く道が分岐しています。
ここは地名の示すとおり尾根に祠が立ち、朝ということもあり荘厳な雰囲気でした。
数年前にここを通った時は本仁田山からの下山時で、しかも雷鳴とどろく空模様だったため、脇目もふらず通過していました。結局その時は雷雨になる3分前に鳩ノ巣駅に到着し、難を逃れています。
ザックを下ろしてチョコレートとアクエリアスを補給し、6:45に出発です。
歩き出すとすぐに、この先歩く場所を見上げることができました。
一番高いコブが、おそらく川苔山の肩だと思われます。遠くて高いです。
それにしてもスギ・ヒノキ植林だらけ。つまらない道が予想されました。
ですが、そもそもこの日はトレーニングのつもりだったので、展望の類はほとんど期待していませんでした。
大根の山の神からわずかに林道を歩き、すぐに右手に登山道が分岐するので入ります。
すると、歩きやすい快適な道がしばらく続きます。
たいした傾斜もなく、木の根や石が張りだしていることもなく、とにかく歩きやすい。
前日に雨が降っていたのでぬかるみを警戒していたのですが、それもありませんでした。
先の行程が長いので、急げるうちに急ぎます。どうせ後半になると、地図のコースタイム以下の速さになってしまうでしょうから・・・。
しばらく快適なトラバースが続く登山道ですが、空積みの古い石垣のある谷を越えると、やや傾斜が急になります。歩幅と合わない階段も登場します。ただ、標高は稼げます。ガシガシと登っていきます。(とはいっても、トレイルランニングをされる方や登山のベテランの方からは、失笑されるほどのスローペースですが)
本仁田山・大ダワ方面からの巻道(この道は狭くてハイカーから恐れられているそうです)と合流して、道が少々不明瞭な沢筋を少しだけ進み、標高1050mあたりまで登るとベンチがあります。親切ですね。もちろん休みます。塩飴をふたつ舐めました。この日は塩飴に何度助けられたかわかりません。
8:13 舟井戸(標高約1210m)
舟井戸のコルとも呼ばれる鞍部に着きました。このあたりは、鞍部のことを「コル」や「タワ」と呼んでいる地名が多いです。
ここまで来れば川苔山はもう少しです。昭文社の地図では鳩ノ巣駅からここまで約3時間のコースタイムなので、自分の中ではなかなかのペースです。約50分短縮できました。
ミツバツツジでしょうかね。登山道のあちこちで咲いていて、励みになりました。
舟井戸にもベンチがあったので休憩。川苔山最後の登りに備えます。
舟井戸を出て、すぐに尾根道を右に分けてトラバース道に入ります。一箇所谷を越える箇所がありますが、意外に高度感があって、岩も露出しており怖い場所でした。谷を越えると広葉樹の新緑が広がって、雰囲気の良い道になります。そしてすぐに川苔山の肩に到着です。
8:31 川苔山の肩(標高約1315m)
ここは十字路になっており、川乗橋バス停から百尋の滝を経る道、赤杭尾根や日向沢の峰に続く道、川苔山山頂に至る道の合流点になります。この先のルートは、川苔山の山頂までここから往復して、次の目的地である日向沢の峰に続く尾根道を進むことになります。
鳩ノ巣駅からここまで6.6km、道がそれほど険しくなかったので、距離ほどには長く感じませんでした。
ちなみにこの箇所には茶屋だか避難小屋だかの建物があったそうですが、いまは木の残骸があるだけです。
ここから川苔山最後の登りです。やや急ですが、距離はわずかです。
8:36 川苔山山頂(標高1363m)到着
今回のルートにおける最初の目的地、川苔山に到着しました。鳩ノ巣駅からここまで6.8km(道標による)、2時間35分でした。
まだ時間が早いためか、誰もいません。ハイシーズンには沢山のハイカーで溢れる山ですが、今回は独り占めです。
この山は表記にブレがあり、地理院地図では「川乗山」とされています。一方で昭文社の地図では「川苔山(川乗山)」となっています。このブログでは「苔」の表記を使っています。そちらのほうが響きがいいような気がするので・・・。
二等三角点「火打石」1363.2m
近くに「火打石谷」という沢があるので、そこからの命名でしょうか。
この日は富士山が見えました。
木々が落葉するともう少し見えるのでしょうが、葉が茂る時期だと見える場所はかなり限られますね。具体的には、山頂の標識に向かい合ったベンチの裏側だけなので、ここで煮炊きをする人がいたらそれだけでもう見えないのではないかと思われます。
むしろこの山は、富士山よりも西側に開けた展望を楽しむほうがいいでしょう。
鷹ノ巣山から雲取山に続く石尾根や、中腹を石灰石採掘によって大きく削られた天祖山、奥多摩で最も山深いとされる長沢背稜、日原川を取り囲む山をおおむね見晴らすことができます。
望遠レンズで覗いてみると、雲取山荘の赤い屋根もはっきり確認できました。
雲取山はやっぱりいい山です。
景色を楽しみながら、チョコをかじります。
普段ならこの辺でお湯を沸かしてラーメンでも食べているところですが、荷物の重量削減のためガスバーナーすら持ってきていません。
正直空腹でしたが、行けるところまでは行こうと思いました。
ここで滝でも見ながら下山すれば、それだけで日帰りハイキングの立派な行程になります。
しかし、今日は違います。
ここが、武甲山に続く長い長い縦走路のスタート地点になります。
結局誰も登ってこないまま、9:05に山頂を発ちました。
川苔山の肩を過ぎ、日向沢の峰に進路を取ると、すぐに北側の眺望が開ける箇所に出ます。
ここから、武甲山に向けてのはるかな稜線が見渡せます。正直見ないほうが気が楽です。
ただ、そのどんぐりの背くらべのようなパッとしない稜線のはるか向こう側に、日光連山や関東北部の山々が屏風のように青く浮かんでいたのを見られたので、すこし気分が晴れました。
シロヤシオの花も綺麗でした。ミツバツツジと合わせて、紅白に登山道を彩っていました。良い時期に来られたと思います。
9:38 踊平(標高約1170m)
川苔山から踊平までは、いくつかの登山道を分岐させながら比較的ゆるやかに下っていきます。
踊平は鞍部になっており、ここから獅子口小屋跡を経て川井駅へ向かう道(登山当時通行止め)と、川乗橋バス停から延々と伸びてきた林道に接続しています。
この林道はいま歩いている稜線をトンネルで掘り抜いており、あと少しで埼玉県というところで途切れています。
逆に埼玉側も、この先に通過する有間峠から林道が延びており、東京都に少し届かないところで行き止まりとなっています。両者の終点は都県境の尾根を挟んで、直線距離で500mも離れていません。
もしこの林道が繋がれば、奥多摩から秩父へ直接クルマで抜けられる唯一のルートとなり、林業だけでなく新たな輸送や観光ルートとなる可能性があります。もっとも開通したとしても、既存の区間をかなり整備しない限り、一般車の通行は制限されたままでしょうが・・・。
踊平は鞍部ですから、日向沢の峰に向けて一気に標高差185mを登ります。
ちなみに日向沢の峰の読みは「ひなたさわのうら」です。「峰」を「うら」と読ませます。
踊平を出ると、尾根道と巻き道に踏み跡が分かれます。一瞬どちらを進むか迷い、急登を嫌って巻き道のほうを進みましたが、やがて合流しました。合流したところに道標があるので一安心です。
その道標から、ため息の出る登りが始まります。標高差100m以上をここで一気に詰めてしまうのです。道は尾根をジグザクに登っていきますが、防火帯で木が伐採されており、日光が背中に直接当たります。なかなかトレーニングらしくなってきました。
岩の横を回りこみ、登りも一段落かと思いきや、まだまだ続きます。水をどんどんと消費します。今回、ルート上にそれらしい水場は全くありません。そのため、ペットボトルのお茶500ml+アクエリアス500ml+水2.5Lの計3.5Lもの水を背負っています。さらに水に溶かすアクエリアスの粉も持ってきています。水分不足もそうですが、塩分不足も同様に心配すべきことでした。
ひいひい言いながら、登りきりました。
今までのスパルタンな登りが嘘のように、穏やかな道となります。まさしく飴と鞭です。
あとは、日向沢の峰に向けてゆるゆると上がっていきます。
10:01 日向沢の峰(標高1356m)到着
川苔山から2.9km(道標)、56分で到着です。地図のコースタイムだと1時間20分なので、なんとかいいペースを維持できています。というより、愚直にコースタイム通りに歩いて、さらに適宜休憩を入れていたら、日暮れまでに武甲山にたどり着くことができません。休憩は欠かすことができないので、歩く速度を早めるしかありません。山のベテランはとにかく休まずにゆっくり歩き続けるそうですが、自分はペーペーですので・・・。
日向沢の峰は狭い山頂ですが、眺めは川苔山より良いかもしれません。とくに富士山の眺めは、確実にこちらの方が分があります。今年は雪が少ないとのことですが、それでもまだ十分に残雪があるように見えます。富士山の左肩のコブ(宝永山:標高2693m)に雪がないことから、だいたい標高2700~3000mあたりが雪線のようです。
山頂に設置してある気温計は12℃を指していました。たしかに日差しは強く、登っている最中は暑くなりますが、風はやや寒いくらいでした。午前中はやはりいいですね。
ここで、鳩ノ巣駅を出てからはじめて、人とすれ違いました。
この先の有間峠にクルマを止めて、ここまで登ってきたそうです。
なるほど、有間峠は林道ですがしっかり舗装もされていて、しかも標高も高いため、散策するにはちょうどいいですね。有間峠からは見えない富士山も、ここまで来れば綺麗に見えます。
この後も、有間峠から来られたハイカーと4人すれ違いました。皆さん、やはり峠にクルマを置かれていました。
ちなみに、この日全行程を通してすれ違った人数は、9人です。そのうち5人が日向沢の峰と有間峠の間でした。つまり、その先の区間では4人。いくら平日の昼過ぎとはいえ、そこまで人気のないエリアなのかと、自らの認識を改めることになりました。
10:20に山頂を出発。これにて富士山とはお別れになります。
下り始めてすぐに都県境の尾根に合流し、棒ノ折山方面に進む道との分岐です。道標によると6kmほどなので、下り基調ということを考えると2時間半ほどで行けるでしょうか。前回棒ノ折山に登った時は曇天でご自慢の展望が全くなかったので、一瞬心が動きましたが、ここは初志貫徹で行きます。武甲山のピークを踏むまでは帰れない・・・!
10:27 有間山分岐(オハヤシの頭)
棒ノ折山の分岐から、軽く下って登り返すとすぐに有間山方面への分岐です。道標があるので、それを見落とさなければ間違えることはないでしょう。有間山と書かれた標識は、都が設置した道標とは別にあります。管轄の違いというものでしょうか。
都が設置したほうの道標には「オハヤシの頭」と記されていました(落書き?)。有間山はいくつかのピークの総称であり、それぞれのピークは「頭」と呼ばれていることから、あるいはここもすでに有間山の一部に入っているのかもしれません。
ちなみに今までの尾根をまっすぐ進んでいくと、蕎麦粒山や天目山、酉谷山などの長沢背稜を経て雲取山まで歩けます。これもなかなか魅力的ですが、我慢です。
ようやく東京都を抜け出しました。ですが、武甲山への道のりはまだ始まったばかり。
果たしてたどり着けるのか、その前に日が暮れるのか、ギブアップするのか・・・。
続きます。