怠慢という不治の病に罹り 滅亡へ向かう行進をやめない彼の 明日はどっちだ
ハードディスクの整理をしていて、ホームページのデータが「発掘」されたので、急に懐かしくなって記事を書きました。
発掘ですよ発掘。ファイルの位置すら見失っていたのです。
そこで気づきました。ブログおよびサイトを確実に見てくださる読者さまは・・・いました。未来の自分でした。まるで他人が書いたような文章を読んで、いま、新鮮さを覚えることができました。
ですからこのエントリーも、どこかのリンクからアクセスして下さった、物好きな(失礼)読者さまのほかに、またいずれ見返すであろう未来の自分に向けて書くものでもあるのです。
タイムカプセルに託した未来の自分への手紙が、まれに思いもよらぬ感慨を引き起こさせることは、世代を超えて共感される事ではないでしょうか。
さらに、このエントリーを投稿することは、何年後か分からない未来に、再び2016年の自分のように、パソコンでもスマホでもよいので、この文章を他人のように読むことが出来ることが叶うように・・・という願掛けの意味も込めています。つまりそれまで野垂れ死ぬなということです。 本当に生きていてほしい。いや、しぶとく生きながらえてやる。
次にまたこの感慨を味わうことが出来たら、たとえ他者に理解されなくとも、だれにも感知されずとも、それは勝ちなのです。味わっているのなら、噛みしめてくださいね・・・。
未来の自分への手紙、今さらになって書くのが楽しいと思えました。
小学校を卒業する際、20歳になったら開けようといって講堂の地下に埋めたタイムカプセルに入れた自分への手紙が、あまりにも中身空っぽで意味不明だったので悲しい気分になりました。
誰が好きだったとか、嫌いだったとか、見えてる景色でもなんでもいいのでとにかく何か書いてくれれば、それを面白く他者として笑い飛ばせる読者が確実にいたのですが、阿呆な小学生にそこまで考えろというのは酷な話ですかね。
「日原トンネル 旧道」なんかをgoogleで検索すると、大正義ヨッキれん様の迫真のレポートのつぎに自分が書いた(はずの)未完の拙いレポートが未だにこびりついていて、顔をしかめざるを得ません。考証の甘さや内容の薄さには目をつむっても、文章は気取っているようで気取れておらず、うすら寒いものを読んでいて感じました。嘗て・・・愈々・・・其れ・・・自己責任の蓑・・・それより文章推敲しろよ。
しかしこれは、そのレポートを他人の書いた駄文として切り捨てることができず、まだ難しい言い回しや漢字を使うのが格好いい、というお年頃の自分と今の自分は他人になりきれていないということであり、ある意味で安心しています。う~ん、今の文章も言い回しがくどいですねぇ。
駄文乱文怪文、思うままに書くのは楽しいですね。
行ったところ、登った山なんかは、次のエントリーに回します。
それでは
発掘ですよ発掘。ファイルの位置すら見失っていたのです。
そこで気づきました。ブログおよびサイトを確実に見てくださる読者さまは・・・いました。未来の自分でした。まるで他人が書いたような文章を読んで、いま、新鮮さを覚えることができました。
ですからこのエントリーも、どこかのリンクからアクセスして下さった、物好きな(失礼)読者さまのほかに、またいずれ見返すであろう未来の自分に向けて書くものでもあるのです。
タイムカプセルに託した未来の自分への手紙が、まれに思いもよらぬ感慨を引き起こさせることは、世代を超えて共感される事ではないでしょうか。
さらに、このエントリーを投稿することは、何年後か分からない未来に、再び2016年の自分のように、パソコンでもスマホでもよいので、この文章を他人のように読むことが出来ることが叶うように・・・という願掛けの意味も込めています。つまりそれまで野垂れ死ぬなということです。 本当に生きていてほしい。いや、しぶとく生きながらえてやる。
次にまたこの感慨を味わうことが出来たら、たとえ他者に理解されなくとも、だれにも感知されずとも、それは勝ちなのです。味わっているのなら、噛みしめてくださいね・・・。
未来の自分への手紙、今さらになって書くのが楽しいと思えました。
小学校を卒業する際、20歳になったら開けようといって講堂の地下に埋めたタイムカプセルに入れた自分への手紙が、あまりにも中身空っぽで意味不明だったので悲しい気分になりました。
誰が好きだったとか、嫌いだったとか、見えてる景色でもなんでもいいのでとにかく何か書いてくれれば、それを面白く他者として笑い飛ばせる読者が確実にいたのですが、阿呆な小学生にそこまで考えろというのは酷な話ですかね。
「日原トンネル 旧道」なんかをgoogleで検索すると、大正義ヨッキれん様の迫真のレポートのつぎに自分が書いた(はずの)未完の拙いレポートが未だにこびりついていて、顔をしかめざるを得ません。考証の甘さや内容の薄さには目をつむっても、文章は気取っているようで気取れておらず、うすら寒いものを読んでいて感じました。嘗て・・・愈々・・・其れ・・・自己責任の蓑・・・それより文章推敲しろよ。
しかしこれは、そのレポートを他人の書いた駄文として切り捨てることができず、まだ難しい言い回しや漢字を使うのが格好いい、というお年頃の自分と今の自分は他人になりきれていないということであり、ある意味で安心しています。う~ん、今の文章も言い回しがくどいですねぇ。
駄文乱文怪文、思うままに書くのは楽しいですね。
行ったところ、登った山なんかは、次のエントリーに回します。
それでは
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